第8話:原稿料や講演料を使って、2年がかりでやっと完済した辛い思い出。

 

ベント・ヴィンゲ
イージーチェア&オットマン(1958-59年)
織田コレクションの北欧の椅子の中で、比較的少ないノルウェーの作品である。角を連想させる肘のデザインや、フレームの金具を動かすことで背と座の角度が変えられる機能が特徴だ。しかし構造に問題があったせいか量産には至らず、おそらく世界でも現存するのは自身の工房でつくられたこのプロトタイプ1セットのみと思われる。

 

見つけたのは、東京代官山で開かれた
「ノルウェージャン・アイコンズ展」。

たまたま知人から、ノルウェーの家具が見られると聞いて出掛けた展覧会でこのイージーチェアを見たとき、すぐに1950年代の家具雑誌「モビリア」に1ページを使って大きく掲載されていたのを思い出しました。写真でも美しい椅子でしたが、実物を見るとさらに強く心惹かれ、将来つくるデザインミュージアムのためにも絶対に遺さないといけないと思いました。展覧会は巡回展で、ここで売れなかったものはニューヨークに送られてしまうので、即決しなければなりません。ところが椅子に付けられたプライスカードには、「ン百万円」という数字が書かれています。

そのときの僕は東海大学の特任教授を退職し、執筆や講演、テレビ出演などの報酬で生活していた時期。大学からの退職金も椅子の支払いなどのため半分くらいになっていたのです。そこで責任者に事情を話し、例によって取り置きをお願いして帰って来ました。ところが翌日その方から電話があり、「キャッシュですぐに買いたいという方がいらっしゃいまして…」と困っている様子です。僕の場合それを言われたらおしまいですから(笑)、「仕方がありません。諦めます」と答えました。がっかりしていたら、数日後にまた電話が来て、今度は「オーナーに相談したところ、それは織田さんに買ってもらった方がいい。分割で構わない、と言っているので最初のお約束通りお取り置きしておきます」とのこと。喜びの一方で、ここから苦しい返済が始まりました。働いたギャラでコツコツ支払うしかなく、完済までには実に2年を要しました。僕の購入履歴の中で、もっとも支払いに苦労した思い出の椅子です。

 

ノルウェーの家具には、
プリミティブな独自性がある。

僕のコレクションの家具は北欧のものが多く、デンマークだけで約900点ありますが、対してノルウェーのものは30点ほどと少数です。北欧諸国で僕が実際に訪れていない唯一の国というのも、理由のひとつかも知れません。ノルウェーは隣町に行くにも、船でフィヨルドの湾の奥から外洋に出て隣のフィヨルドまで回り込むような地勢的に隔絶された国で、ヨーロッパ諸国の影響を受けにくい環境にありました。そのためプリミティブなデザインが長く受け継がれてきたのだと思います。その独自の伝統的な味わいは、たとえば高度な木材技術で名高いバイキング船オーセベルグ号や、釘を使わない木造建築で世界遺産に認定されているスターヴ教会などにも表れています。しかし、こと椅子に関してだけはデンマークに倣おうとしていたようです。

この椅子にもデンマークの影響が見られます。1950年にボーエ・モーエンセンが発表した「ハンティングチェア」と、構造やデザインがとてもよく似ています。たぶんそれを元にリデザインしたのでしょう。この頃ノルウェーでは、アルフ・ステューレ(2023年北欧デザイン展の図録をお持ちの方はP43)、シグード・レッセル(同P44)、アドルフ・レリング&ロルフ・ラスタッド(同P45)といったすぐれたデザイナーが登場し、いい意味でデンマークデザインの影響を受けながら美しい椅子を発表していました。これが北欧全体として調和の取れたデザインを生み出し、“スカンジナヴィアン・ハーモニー”と呼ばれるようになったのです。

 

実物でしかわからなかった問題点。
おそらくそれが、量産できなかった理由。

この椅子は、金具の位置によってシートの角度が自由に調整でき、取り外しも可能な構造です。ただ、入手してから実際に家で使ってみると結構ムリがあるのがわかってきました。危ないと思いつつ、試さなければわからないのでしばらく使い続けました。魅力も問題点も、実物があって初めてわかります。バーチャルではこうはいきません。

ひとつめの問題は脚部と貫の接合部です。ホゾをフレームの木目に対して直角に打ち込んであるため楔で力をかけると割れる可能性が出てきます。ホゾは木目と平行が原則。座の下のフレームも貫が1本では剛性が弱い。背を支える斜めの部材も、双方の接合部を互いに欠き取って合わせる仕口「相欠き」を使った方がいい。プロトタイプは通常5、6脚、最低でも2脚つくられますが、オーナーが「現存するのはたぶんこれ1脚」と言っていたように、ほかはおそらくこれらの理由から壊れてしまったのだろうと思います。

構造がさらに詳細にわかったのは、ノルウェーの家具メーカーから「量産したいので図面を描いてもらえないか」と依頼があり、三次元の実物から二次元の図面を描き起こすという、通常のものづくりの逆の作業をしたことがあるからです。ムートンの座に針を刺して下地を探ると、中にはベルトを巻き付けたスチールパイプが入っていました。つくられた頃はまだノルウェーにパイプを曲げる機械はなかったはずなので、鍛冶屋さんで苦労して曲げたものでしょう。その位置と太さを確かめ、図面を引いていきました。図面起こしは、漠然としか見えていなかったものが数値で得られる非常に有意義な作業です。正面図、背面図、側面図、平面図を描いたのですが、描くほどにその美しさが実感できました。そうすることで「ハンティングチェア」との共通項もより詳細にわかってくるのです。

この「両方の椅子があること」が、織田コレクションの重要な意味です。アナロジー(形態類似/比較により類推すること)は研究においてとても大切で、似た文化の中でいかにオリジナリティを出したのかが、デザインの進化をひもとくことに繋がるからです。この椅子の場合だと、リデザインして座の角度を変えることに挑戦しています。後世に遺すべき椅子だと思ったのはその点なのです。

 

左:接合部について、私のノートに図を描いて説明する織田先生。/ 右:木目と平行のホゾ。これが本来の接合。

 

旭川家具との縁は、第1回目の
「国際家具デザインフェア旭川[IFDA]」。

東海大学の話が出たので、僕が大阪から旭川へ移住し東海大学に勤務し始めた頃のことを少しお話ししようと思います。移住のきっかけは、旭川家具を牽引したカンディハウス創業者長原實さん(故人)との出会いでした。前回のこのコラムでも紹介した「世界デザイン博覧会」(名古屋)の「デンマーク180脚の椅子展」でのことです。僕が私用で在廊していない間に長原さんが訪れ、「北海道へ来ることがあったらぜひ私の会社においでください」と書き添えた名刺を置いて帰られました。偶然にもその3~4カ月後、北海道の仕事が舞い込みます。旭川にほど近い芦別市での取材を終えた私を、インテリアセンター(カンディハウスの前身)の人が迎えに来てくれ、連れて行かれた(笑)のが「国際家具デザインフェア旭川[IFDA]」の会議が行われているホテルでした。

このフェアは現在まで3年に一度継続して開催され、2024年で12回目を数える世界的なデザインイベントです。第1回は旭川市開基100年記念事業として計画され、大変大掛かりで華々しいものでした。会議では、その事業の一環として名作椅子の展覧会を開くといいます。出展リストを見せてもらうと、海外にしかないなど入手が難しいものが並んでいます。そこで僕は「開基100年なら、ここ100年のデザイナー100人の100作品を集めてはどうか」と提案しました。僕の持っているもので75脚、あとの25脚はつてを使って借りられますからと。この展覧会が、僕と旭川家具との縁となりました。

 

1990年旭川市開基100年記念事業として開かれた、第1回の「国際家具デザインフェア旭川[IFDA]」。

 

「木の家具・百年百人百選」の会場。ここから織田氏と旭川家具の関係が始まった。

 

織田コレクションを旭川に導いた長原實さん。いつも地元と若者の未来を考えていた。

 

移住を可能にしてくれた、
東海大学旭川キャンパスの教授職採用。

デザインフェアは成功し、僕と長原さんはその後もよく話をするようになりました。そしてすでに800脚を超えていた椅子の保管場所と毎週20万円かかる撮影作業で、経済的にも体力的にも限界がきていた僕の窮状を知った長原さんから、「椅子を旭川に持って来ませんか?そしてデザインミュージアムを旭川につくりましょう!」という提案があったのです。しかしそれにはあまりにも課題が多かった。僕は47、8歳、家族がいて、デザイン事務所を経営しており、大事なクライアントもいます。大阪芸術大学や嵯峨美術短期大学、神戸学院女子短期大学などの非常勤講師、大阪美術専門学校、NHK文化センターの講師もしていましたから、それらすべてを退任することになります。それでも、このまま続けるのが不可能なのは僕がいちばんよくわかっており、最終的に人生における一大決心をしたのでした。

移住の最大の原動力はもちろん「日本初のデザインミュージアムをつくる」夢ですが、それにはまず現地で生活ができなければなりません。長原さんは当初、僕が大阪を離れられるとは思っておらず、椅子だけを旭川で預かるつもりだったようですが、僕は研究者です。椅子のそばにいなければ研究はできません。そのためには旭川に仕事が必要です。僕の意向を聞いて「東海大学のデザイン学科に欠員が出るようなので教授に挑戦してみないか」と誘ってくれたのも長原さんでした。自分にできるのかと少し迷いましたが、大阪で教壇に立っていた経験と、当時建築学科の主任教授だった大矢二郎先生から「ぜひ旭川に来てほしい」という心のこもった手紙をいただいたことで決心がつきました。そうして僕は東海大学旭川キャンパスのデザイン学科の専任教授として採用され、その後21年間(最後の3年間は特任教授)在籍することになります。

今だから言いますが、僕ははじめ旭川というまちが北海道のどこにあるのかさえ知らなかったんですよ(笑)。移住を決め、お世話になった方々に挨拶に回ったとき、ある高齢の女性から「北海道ですか…お気の毒に…」と声を掛けられました(笑)。それくらい、関西の多くの人にとって北海道は遠い地域だったのです。

デザインフェアから1年後の1991年、長原さんのアイデアとリーダーシップによって旭川家具工業協同組合を中心とする「織田コレクション協力会」が設立されます。多くの会員の皆様のおかげで椅子の移送と保管費用が確保され、撮影や展覧会の計画にもめどがつき、JR旭川駅の2階には展示スペース「チェアーズギャラリー」をオープンしました。ただ当時は市民のデザインに対する意識が今のように高くなく、ギャラリーも有料だと人が入らないという状況でしたが。あれから30年が経ち、この地域は大きく変わりました。隔世の感があります。旭川駅周辺のデザインやまちの美しさなど景観条件は揃ってきました。このちょうどいいサイズ感や住みやすさを生かして、発展する方法はいくらでもあると思うのです。

 

1972年東海大学工芸短期大学として開校、地域産業の活性化に大きく貢献した東海大学旭川キャンパス。2014年札幌キャンパスに引き継がれる形で閉校した。

 

2023/12/5 せんとぴゅあ(東川)にて
聞き手/西川 佳乃

 


<インタビューを終えて>
東海大学旭川キャンパスは、私にとっても思い出深い大学です。兄が建築学科を出て建築士になり、私は織田先生の紹介で広告論の非常勤講師を14年務めました。お付き合いのあるデザイン事務所はもちろん、家具メーカーや住宅メーカーでも東海大で建築やデザインを学んだ人が活躍しています。織田先生の「ここ30年で隔世の感」は、その若者たちの力が大きいと私は思います。2014年の同大の閉校は、旭川地域のとてつもない損失でした。危機感から直後に巻き起こった市民運動でも、リーダーを務めたのは長原實さん。民意に背中を押される形で、ようやく旭川市は私立旭川大学を市立化し新学部をつくろうとしていますが、その内容は当初目指したものづくりやデザイン教育とはかけ離れています。織田先生はじめ家具・デザイン関係者の、目下の最大の悩みです。

コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。