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第9話

デンマークについての、ただひとつの嫌な思い出。
二度落札することになったカップボード。

デンマークについての、ただひとつの嫌な思い出。二度落札することになったカップボード。

コーア・クリント
カップボード/6人用(1930年)

1927年に研究発表、世界初の「分析の概念」に基づく収納家具として3年後に製品化された。家族が使う食器の種類とサイズ、数を細かく調査・分析してデザインした4人家族用と6人家族用の2種類。引き戸を開けると細かいピッチの溝にトレーが入っており、食器の高さぎりぎりに調整できるため無駄な空間ができない。6人用は数点のみの製造で、極めて稀少。

1985年頃デンマークのオークションで落札した、
近代デザイン史に残る逸品。

最初に落札したのは1985年頃、このカップボードの4人用です。1930年に6人用と合わせて70点ほどつくられただけの稀少品ですが、加えて、かつてなかった「分析の概念」に基づくすぐれた機能性を持っていたことが、「何がなんでも手に入れなくては」と思った理由でした。日常で使用するすべての食器、パン皿やディナープレート、ワイングラスなどが最小限のスペースで収まるようデザインされています。深いトレーは、食器を隙間なく入れられる仕切り板付きです。これにより外形寸法が同じ当時の一般的なカップボードに比べて、約2倍の収納力を持っていたといわれています。この発想が、以降のデンマーク家具の機能性の基礎となっていきました。近代デザイン史の中でも特筆すべき家具と言ってよく、ドイツのアドルフ・シュネックが少し後の1932年に同じ考え方に基づくものを発表したことからも、その影響が国内外に広がっていったことがわかります。

さて、僕が落札したカップボードは、その頃に競り落とした椅子7脚とともにいつものように現地のトランスポート会社に預かってもらいました。落札したり購入したりしたものは全部この会社に送り、20フィートコンテナがいっぱいになったら発送してもらうという約束になっていたのです。輸送費は手数料などもろもろ入れると当時のレートでおよそ100万円。これが購入費用に上乗せされるのですから僕には大きな出費です。頑張って送金し、しばらくするとコンテナが到着しました。開けて中のものを確かめたところ、このカップボードと椅子7脚が入っていないのです。

トレーごと下のスライドテーブルに下ろして、食器を出し入れできる構造。

手を尽くしたものの見つからず。
おそらく横流しされた───。

驚いた僕はすぐに会社に問い合わせましたが、「わかりません」との返答。長い付き合いのピーター社長に直接聞いても、「わからない」としか答えてくれません。日本のヴィンテージショップなどの多くが利用している会社なのに、こんなことがあっていいのか───。僕は東京のデンマーク大使館に行って事情を話しました。しかしそこでも「大使館として私企業に介入できない」。現地の友人たちにも相談しましたが、結局どうにもなりませんでした。そもそもこのトランスポート会社には、預かっていた僕の家具を見て「このゴミを何とかしてほしい」と言う社員がいたと聞いていますから、研究資料としてどれほど価値があってもコンディションの悪い椅子は全部ゴミという程度の感覚なのでしょう。社風として文化的価値に対する知識や意識が高くなかったのかも知れません。当然ながら、この一件以来その会社との付き合いはなくなりました。

カップボードと一緒に消えた椅子には、オーレ・ゲルロフ・クヌードセンのアームチェアと、コーア・クリントがセントグルントヴィー教会のためにデザインしたチャーチチェアの原点となった椅子もありました。それらはあれ以来一度もオークションには出ていません。ものとの出会いは千載一遇、「これ」と思った瞬間に遺さないと再び出品される保証などどこにもないのです。たとえ量産されたものであっても、僕が張り巡らせたネットワークにかかってくれたらラッキーで、一度逃すと二度目はない。だから僕は無理を言ったり、取り置きや分割払いしてでも「そのときに」手に入れてきたのです。デンマークは僕にとって最大の研究対象の国であり、長い関係の中で嫌なことはほかにひとつもありませんが、唯一この出来事だけが、悲しい思い出になっています。

泣き寝入りしながら、
頭の中は「また探そう」。

こうした辛い出来事は、長い収集・研究人生の中で時折起こります。そして、ほとんどの場合泣き寝入りするしかありません。泣き寝入りって独特な言葉ですね、枕を濡らしながら寝るなんて(笑)。僕にとってこうした苦しみを解決する方法はたったひとつ、「時間」です。世間でいわれるストレス解消法など少しも役に立ちません。ちなみに僕は、ベッドに入って「ああ今日は楽しかった!」と思って眠ることなどほぼありません(笑)。いつも難しい問題について思いをめぐらしながら眠りにつくのです。このときも辛い思いを抱えながら、しかし「また探そう」と決意していました。

2回目の落札のチャンスは、わりと早くに訪れました。しかも今度の出品物は、おそらく5点前後しか製作されなかった6人家族用です。素材は、現在ではワシントン条約で取り引きが禁止されているキューバマホガニー。すぐに入札に参加し、落札を果たしました。結果的により稀少なものを手に入れることができたのを、幸運と呼ぶべきか迷いますが(笑)。製造したのはルッド・ラスムッセン社。言わずと知れた、デンマークで最も長い歴史を持つ家具メーカーでした(現在は買収され存在していません)。ショールーム1階にある芳名帳には、アメリカ大統領や日本の総理大臣の名があるほど。会社を紹介するパンフレットには、「デーニッシュ_ ファニチャー_ クラシックス」と記され、デンマーク最高の家具と自ら謳っていました。

引き戸や両側面にある金具の持ち手を見てわかるように、このカップボードは19世紀後半にヨーロッパで流行した「ジャポニズム(日本趣味)」の影響を受けています。発表されたときの展覧会でも、日本の提灯がディスプレイに使われていました。今は僕の自宅のダイニングで使用していますが、上に博多人形が飾られやはり和の雰囲気の空間となっています。ちょっと古典的な要素を宿しているところがいいんです。年を取ってくるとこうした流行を追わない、モダンでクラシックなものに惹かれますね。

左:織田邸唯一の和コーナー。横にはポール・ケアホルムのダイニングセットPK54とPK9が。/ 右:日本の衣裳箪笥とよく似た持ち手が付いています。

コーア・クリントが取り組んだ
もうひとつの重要な研究。

1927年デンマーク王立アカデミーの建築学科に家具コースが誕生しました。クリントはそこの責任者になり、機能性と審美性を合わせ持つ「機能美」など、多くの研究をしたといわれています。たとえば18世紀イギリス様式の家具や当時権威の象徴としてオーダーメイドされていた椅子の、無駄な装飾を取り除き現代生活にマッチするようシンプル化するという「リデザイン」の考え方を確立しました。それまでフランスやイギリスの模倣ばかりしていたのを、よい面は見習い、改良・改善することの重要性を提唱。この運動がデンマークのデザインに、飽きのこない審美性を産み出し定着させていきました。彼がデンマーク近代家具の父と呼ばれる所以です。

クリントの「分析の概念」を取り入れ、家具に新たな機能性を持たせていったのが、愛弟子のボーエ・モーエンセンです。彼はデンマーク生活共同組合連合会「FDB」の責任者になりました。FDBは「ふだんに使う家具はより美しく、より堅牢に、より安く」が身上です。そこで開発されたものの多くにクリントの思想が反映され、すぐれた製品が次々と世に送り出されていきました。人間工学に基づいてデザインされたシェーカーチェア「J39」はその代表作といえます。今でもプロダクトデザイナーや家具デザイナーに「もっとも尊敬するデザイナーは」と尋ねると、その多くがコーア・クリントと答えます。

家具と日用品、資料合わせて2万点以上。
破損もあるし、紛失もある。

実は、紛失はこれだけではありません。旭川の収蔵庫でも、もう何年も行方知れずな椅子があります。運び出すときに上からシャッターが下りてきて肘が壊れ、新しいもので弁償してもらったのですがそれがどうしたものか見当たらないんです。ヨルゲン・ガメルゴーのアームチェアですが、これは今度オークションに出たら絶対に買おうと思っています。2万点を超えるコレクションと資料をすべてを把握しきれているかって?もちろんですよ。僕の頭はそこだけ異様に発達してるの。ほかは何もかもスコーンと忘れているのにね(笑)。

このように、コレクションは買い足し充実させていかなければなりません。コーア・クリントのものもほかに椅子やソファなど稀少性の高い作品十数点を所蔵していますが、諦めたものの方がずっと多い。世の中にはまだまだ遺さなければならないものがたくさんあります。僕が個人としてやれることはやり尽くしたと思うけれど、ここまでのことは微々たること。ニューヨーク近代美術館などに比べれば、全体の数%しかできていません。ここから先は、後に続く人たちに頑張ってもらうしかありません。東川町による公有化はスタートです。このあとコレクションをふやし、それを利活用し広めていく活動を続けてこそ、公有化した意味があるのです。

左:先生は展覧会の図録用に2万字の原稿を書いているところでした。シャープペンシルと消しゴム、そして辞書。/ 右:取材日はよく晴れた日。「家具が焼けるから」とカーテンを引いて照明を使います。

2024/3/18 織田邸(東神楽)にて
聞き手/西川 佳乃

インタビューを終えて

今回はカップボードがご自宅にあるため、取材は織田邸で行いました。車を停めて降りると、樹木にバードハウスとフィーダーが掛かっていて、野鳥が代わる代わる餌をついばんでいます。久しぶりにおじゃました先生の書斎は以前よりものがふえたように感じましたが(笑)、変わらず美しくて居心地がよく静かでした。植物はどれもいきいきと葉を伸ばし、幸せそうです。生きものにも、ものにも愛情を注ぐ暮らし。ここで流れる時間も織田コレクションの一部なのだと思いました。取材が終わり送りに出てくれた先生を、すぐに鳥たちが囲みます。「時間は減っていき、ふえていくのは体の不具合」と笑った先生の言葉を、ちょっぴり複雑な気持ちで思い出しながら帰りました。

コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

先生が口笛を吹くとコガラやシジュウカラが集まって来て、手からヒマワリの種をついばむ。

映像作品

Life at Oda’s Residence — 織田邸の暮らし

読みもの

織田憲嗣氏に聞く思い出のコレクション12

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