カテゴリー

Interview

  • 第4話:ポットだけで20万円。1点ずつ、20年かけてほぼすべてのアイテムを揃えた。

    ゲートルード・ヴァセゴー
    カペラ(1975年)
    「カペラ」は、ヴァセゴーの作品の中では新しい方に入るシリーズ。古いものには「ティーセット(1956 年)「ゲンマ(1962年)」「ゲミナ(同)」などがあり、織田氏はそれらの中でもっともこの「カペラ」が好きだという。ロイヤルコペーハーゲン社で少量しかつくられなかったため市場にも出回りにくく、織田氏も入手にかなりの時間と費用をかけることになった。

     

    最初に見つけたのはポット。
    北青山の「リスティ」で20万円でした。

    「もしこのシリーズが入ったら、必ず知らせてください」。北青山にあったアンティークショップ「LYSTIG(リスティ)」にロイヤルコペンハーゲン200年史に出ていた写真をコピーして送り、そう頼んでから何年待ったでしょうか。ある日「ティーポットが見つかりました」と連絡があったのが、「カペラ」収集の1点目となりました。ゲートルード・ヴァセゴーが1975年にデザインした食器のシリーズ「カペラ」は、ヴァセゴーが日本の影響を受けていたこともあって、モダンな北欧デザインでありながらポットの把っ手の形状や籐使いなどに、和が感じられるものになっています。

    白い無地の器というのは装飾性がないため、特徴を出せるのは形しかありません。このティーポットはよく見るとわずかに楕円形で、派手さはまったくないけれど、その肌は少しグレーがかった白磁に近い白で、なんともいえない美しさです。白といえば、「ドミノ」の白も美しい。なめらかな女性の肌にたとえられる、つややかな深みのあるアイボリーがかった白です。日本にも白を表す言葉はたくさんありますが、雪と氷に生きるアラスカのイヌイットには、氷河をイメージした「グレーシャホワイト」など150もの表現があるそうです。

     

     

    「カペラ」が少ないのは、
    「モダン」がリスクと考えられているから。

    作家がどんなによいと思ってデザインしても、メーカーの方向性に沿わないと発売に至らない、至っても少量生産ということはよくあります。「カペラ」を製造するロイヤルコペンハーゲンも、同社の礎を築いたアーノルド・クロウの「ブルーフルーテッド」が一番の売れ筋であり、ヨーロッパの名窯の多くがそうなように、モダンなものを避ける傾向があります。マイセンなどは、モダンなものは皆無と言っていいほどです。従って「カペラ」も短命であり、市場に出回らないため高価なものになりました。メーカーにとっては稼ぎ頭のシリーズがあるからこそ冒険もできるわけですが、それだけモダンは「危険なもの」なんですね。ヨーロッパは古いものを尊ぶ文化が根強いためでしょう。イギリスでは車でさえ古いものの方が税金が安いくらいですから。

    その「カペラ」を、僕は長い間印刷物でしか見たことがありませんでした。初めて実物を見たのはコペンハーゲンのデザインミュージアム。ポットとクリーマ、カップ&ソーサー、キャセロールまでまとまったものを見たのはこれ一度きりです。ポットを手に入れたあと、北欧の日用品を調べ続けるのが趣味のコピーライターの友人が、「キャセロールとプレートがデンマークのあのお店に売ってるよ!」と知らせてくれました。僕はカードを持たないので娘に頼んで決済してもらって買いました。こうしてコツコツと1点ずつ買い足し、20年かかってほぼ全品が揃いました。

     

    日用品の展示は集合体でこそ。
    シリーズで収集したのはそのため。

    日用品は、ひとりのデザイナーが用途に合わせていろんなバリエーションをデザインしていて、それがひと塊になってこそ見応えがあります。展覧会ではその多様なデザインを多くの人に見てほしい。「芸術性を持った日用品」の素晴らしさは、美術品のような展示では伝わりません。

    展示するものを選ぶとき、僕はいつも会場の図面をフリーハンドで描き起こします。テーマに合わせて選んでおいた出品リストに基づいて、1点ずつ寸法を確かめ、どの椅子、どのテーブルがどこに入るか、照明はここ、日用品はここに──とシャープペンシルで描きながら調整し、位置を決めていきます。

    そうして最終の出品リストが完成したら、旭川市内と東川町内にある収蔵庫、それに僕の家から探し出します。分散しているのでどうしても手間もかかり、なかなか見つけられず苦労することも。手順を説明すると、①ものを出したら、廊下に白い紐をプッシュピンで止めて展示スペースと同じ広さの枠をつくったところに並べ、スマホで仮撮影。②1点ずつ梱包して段ボールに詰め、東川写真文化ギャラリーのスタジオに運び、梱包をほどいて撮影。③再び梱包して東川町内にある倉庫に集める。④その後搬入日に合わせて日通のトラックが来る。美術梱包のプロが二人一組になり、まず元の梱包をほどき、三層段ボールを使ってその場で1点に1個の専用箱をつくって再梱包(この作業に数日かかる)。⑤荷台が棚になったトラックに、キャビネットなどの大物から椅子、照明、小物の順に詰めて出荷。という段取りです。大変でしょ(笑)。今回の「北欧デザイン展」(日本橋高島屋・2023/3/1-21)では、東川のデザインギャラリーのスタッフが本当によく頑張ってくれました。

     

     

    使い心地が悪くても、いい。
    惚れた弱みというやつですね(笑)。

    僕はコレクションの家具や照明を自宅で使っていますが、食器はなかなか使えません。欠かしたら2度と手に入らないからです。ですから使いたいものは複数買うことになるのです(笑)。使いやすさ?あまり関係ないかな。使い心地が悪くても好きだから。

    もちろん、展覧会に貸し出すときは慎重に扱うようお願いしています。今回の「北欧デザイン展」の図録にある、カイ・ボイスンのコーヒーサービスセット(P213)。これには苦い思い出があります。ある展覧会から返って来たら、ポットの口が欠けていたんです。仕方がないので、デンマークのオークションでセット崩れを探して買い直しました。ヴァセゴーのティーセット(P250)も、貸し出しを終えて梱包を解いたら持ち手が折れていた。食器類はこれがいちばん悲しく、そうならないようにするのが大変なんです。絶対に壊れないよう専用の箱をつくるなど工夫しています。そういえば、今回日通が何十個も持って来ていた、クッションでサンドするカバン型の梱包材はよかった。道具も手際も、さすがプロの仕事です。綿を和紙でくるんだワレモノ用の綿布団も便利だったので、それはお願いして次のために置いていってもらいました。

     

    実は、椅子よりも
    日用品を集め始めたのが先。

    椅子のコレクションが日用品に広がったと思われがちですが、実は逆で、大学を出て高島屋に入社した頃から食器は好きでよく買っていたんです。やはり北欧のものが多く、今回展示したダンスクの鍋もそのひとつだし、今も家で使っている朝食用パン皿はノルウェーの「ポルシュグルン」のもの。50年以上使っているので模様も擦り切れていますが、大きさがちょうどよくて気に入っています。自宅の吹き抜けの下にある可動式のイタリアの照明も、自分で直しながら50年使っています。

    新婚の頃、街でダンスクのフォンデュセットを見つけました。いいものは迷わないのですぐ買うことにしたのですが、見るとセットのウォーマーを入れて当時で5~6万円もします。そのとき持っていたお金を全部出して、間に合うかどうか冷や汗ものでしたがギリギリで買えたのを思い出します。その後も「きれいだから買おう」の即決が続き、だんだんふえていきました。そして研究者の道に進むと決めてからは、使命感によってコレクションはふえ続けているのです。

    2023/3/6せんとぴゅあ(東川)にて
    聞き手/西川 佳乃

     

     


     

    <インタビューを終えて>

    この写真は、初めて織田先生を取材したときの一枚です。日付は1991年の夏、場所はカンディハウスでした。グラスの水滴をハンカチで押さえているのが、先生らしい(笑)。あれから30余年。ていねいに暮らすことの大切さを、日々教えていただいています。以前、観葉植物を譲ってくださったときの言葉に、私は今もハッとすることがあります。「植物に必要なのは、ほんの少しの愛情です。それがないようではいけません」。(西川)

    コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
    東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

  • 第3話:デンマークのオークションで、「落札予想価格の10倍まで競って」という指示を、代理人が忘れてヒートアップ───。

    フィン・ユール
    チーフティンチェア(1949年)
    フィン・ユールの代表作であるこの歴史的名作椅子は、自宅リビングの暖炉脇で使うためにデザインされた。1949年春、午前10時頃からデザインを始め夜中の2~3時にはフォルムもディテールもイメージ通りに完成していたという。織田氏曰く「これほど堂々とし、威厳と知性、品格を感じる椅子はほかにない」。チーフティンは「酋長・族長」の意味。織田コレクションにはメーカー違いで4脚が所蔵されている。

     

    情報と椅子の収集のため、
    デンマークで日本人駐在員を雇う。

    1984年から5年間ほど、デンマーク在住の日本人男性に報酬を払って、椅子に関するさまざまな情報を集めてもらっていました。彼は日本人観光客のガイドなどをしており、家具の知識もある程度持っていました。仕事は、まずポリチケン紙など地元新聞からインテリアや家具のニュースを切り抜き、翻訳して私設研究室チェアーズに送ること。デザイナーに聞きたいことがある場合などに、僕の代わりに訪ねて取材をすること。またウェグナーやフィン・ユール、グレーテ・ヤルクやベアント・ピーターセンの取材には通訳として同行してもらいました。

    そしていちばん重要な仕事が、オークションへの参加です。オークションの開催情報が入ると、内覧会の初日に会場へ行って出品作を撮影し、プリントを航空速達便で送ってもらいます。僕は作品を選び、エスティメイト(落札予想価格)を見て「いくらまで」と書き込んでまた航空速達便で送り返します。今のようにインターネットがありませんから、何にでも手間と時間がかかりました。そしてオークション当日は、彼が代理で参加するのです。

     

    あるオークションに、
    チーフティンチェアが出品された!

    高島屋に入社して3、4年目の頃、雑誌で見て大きな衝撃を受けたのが「チーフティンチェア」でした。「なんて魅力的な椅子だろう」。いつか必ず手に入れようと思いました。この椅子はニールス・ヴォッダー工房で78脚、イヴァン・シュレクター工房で10脚(刻印付き)製造され、ソーレン・ホーンの弟子ニールス・ロート・アナセンの工房では1980年代から復刻生産、現在はハンセン&ソーレンセンが経営するワンコレクション社で製造・販売されています。

    最初のニールス・ヴォッダー工房製は、世界のデンマーク大使館や美術館に所蔵されておりめったに市場には出回らないのですが、1986年のある日、デンマークのオークションに出品されることがわかりました。何年間もこの機会を待っていた僕は、「落札予想価格の10倍まで競って」と彼に指示しました。会場では競争相手が何人もいて、どんどん値段が競り上がっていきます。脱落していく競争相手。最後はひとり残った相手と彼との一騎打ちです。彼は雰囲気に飲まれたのかヒートアップしてしまい、なんと指示を忘れて入札を重ね、とうとう落札してしまいました。落札額は僕の予算を遥かにオーバーしていました。

     

    「高い買い物」には、
    後悔させない価値があった。

    事情を聞いて、僕はずいぶん高い買い物になってしまったと慌てましたが、同時に「落札できたんだから、よしとしよう」と思い直し、すぐに三井銀行でローンを組んで送金しました。この話には後日談があります。オークションの翌年1987年にフィン・ユールさんとお会いしたのですが、そのときこう言われたのです。「君が前から探していたチーフティンチェアね、あれ去年のオークションに出てすごい値段になっていたよ」。彼は僕が競り落としたことを知らないようでした。「ヴィトラデザインミュージアムから問い合わせがあってね、そのオークションで競ったが落札できなかったから、譲ってくれないかと言うんだよ」。なんと、あのときの一騎討ちの相手はヴィトラだったのです。「結局ヴィトラはニューヨークでチーク材のを見つけて、そのときの落札価格と同額くらいで購入したらしいよ」。

    あとで知ったことが、もうひとつありました。ニールス・ヴォッダー工房製の78脚のうち、ブラジリアンローズウッドでつくられたのは5脚だけで、あとはチークだったことです。その5脚は希少価値が高まり、知人の話では13、4年前にロンドンのフィリップスのオークションで出品されたとき、8千万円の値がついたといいます。僕が落札したのはまさにそのローズウッド仕様。そういえばパリのオークションでは、フィン・ユールさんが一度買い取った「グラスホッパーチェア」のプロトタイプ(2脚のみ試作された)が人を通じてオークションに登場し、約4億円で落札されたと聞きますし、そんな世界になっているんですね。やはり僕のコレクションは、誰も見向きもしないあの時代だったからこそできたことなんです。とはいっても、この落札によるローンは多額で、また働き詰めの毎日が続くことになりましたが。

     

    閉鎖する工房から、
    救い出したものは数知れず。

    駐在員の彼にもうひとつ頼んでいたことがあります。当時次々に閉鎖していく家具工房へ行き、重要な資料となる製品やパーツが残っていないか、情報を集めることです。クリステンセン&ラーセンが工房を閉じるときも、内部の写真を撮って送ってもらいました。何度も言いますが、写メではありません。フィルム写真をプリントしたものが封筒に入ってエアメールで届くのです(笑)。写真の中に、椅子のフレームらしきパーツが部屋の片隅に掛かっているのが見えました。もしや…と文献を探し、イブ・コフォード・ラーセンが1949年に発表したイージーチェアのプロトタイプ(試作品)だということを突き止めました。彼に指示をして、それを組み立てて完成品にしたものを購入。現在自宅で使用していますが、世界に現存する唯一の椅子です。

    A.J.イヴァーセンは、ブラジリアンローズウッドをメイン材とする名門中の名門工房です。アームチェアで80万円という高級家具を製造し、ヨーロッパの貴族相手に商売をしていました。そこが廃業を決めてサヨナラセールをすると聞き、僕はすぐ彼に「1種類1点ずつ押さえて」と指示。彼から26脚ほど売約したと報告を受け、また三井銀行でローンを組みました。こうして救出した資料は数多くあります。

     

    最近やって来た、
    瀕死のチーフティン。

    今年の夏のことです。お付き合いのある洋書専門店のKさんから、「持っているチーフティンチェアを織田さんに買ってほしいという人がいる」と連絡がありました。僕はすぐに「座裏に革が張られていますか?」と尋ねました。張られていれば、それは世界に10脚しかない希少なものだからです。「張られています」との返事。それは、PPモブラーのアイナ・ペデルセンが木部を製作し、椅子張り職人のイヴァン・シュレクターが革を張って販売した幻のチーフティンチェアです。「ただ…」とKさんは言い淀みました。聞けば、持ち主のオランダ人彫刻家がお金のために材木商に売ったもので、コンディションが著しく悪いといいます。一瞬迷いましたが、資料として残す価値があるのははっきりしています。旭川家具の技術をもってすれば修復が可能と判断し、購入を決めました。送られてきたものは革が破れ、特徴ある後ろ脚の先端も欠損し想像以上に無惨な状態でしたが、現在、旭川のメーカーで修復作業をしているところです。

    2022/11/8せんとぴゅあ(東川)にて
    聞き手/西川 佳乃

     

    左は1984年フィン・ユールさんを訪ねたときの一枚。そして右は来客が撮ったわが家での一枚ですが、真似たわけでもないのにあまりにそっくりな構図に驚きます。

     


     

    <インタビューを終えて>

    今回の取材は、談話室が学生でいっぱいだったため織田先生のデスクで行いました。先生はスマホも最近「持たされた」(先生談)くらい、ITと距離を置くスタイルを堅持しているため、デスクにもパソコンがありません。書類も手書き、原稿も手書き。細いシャープペンシルでていねいに書かれます。私も取材は決まったノートと決まったペンで手書き、iPhone録音はしません。こうして近年あまり見ることのない、アナログな取材風景が実現しました(笑)。(西川)

    コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
    東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

  • 第2話:1984年にアトリエを訪ねて以来、20年の交流があったウェグナーさん。ある日突然、この椅子が送られてきて。

    ハンス・J・ウェグナー
    フープチェア(1986年)
    科学技術の進歩によって新しいデザインが可能になる、ということを示す好例。当初金属パイプでデザインされていた丸いフレームを、PPモブラー社の二代目ソーレン・ペデルセンが木の成型でつくる機械を考案して現在の構造を実現した。放射状のロープワークが特徴で、ヨットに使用するロープを小さな金具で止めてある。背当たりを考えて結び目をつくらないためのアイデア。

     

    手紙には「研究用に」。
    僕がこの椅子を持っていないことを知っていた。

    フープチェアは、ある日突然大阪箕面市の僕のマンションに送られてきました。1986年に製品化されてすぐ、1987年のことです。ウェグナーさんからの手紙が入っており、「研究用にプレゼントする」と書かれていました。ウェグナーさんは、研究やデザイン振興のためには協力を惜しまない方で、故郷のトゥナー市にできたウェグナー博物館の展示品もすべて寄贈しています。フープチェアを受け取ったとき、僕を研究者として認めてくれているのだと改めて思いました。

    ウェグナーさんと初めてお会いしたのは、その3年前の1984年、デンマークのアトリエを訪ねたときです。いつも講演や取材でお話ししているように、僕は1980年に私設の椅子研究室「チェアーズ」を立ち上げています。そのメンバーである京都市立芸術大学の妹尾衣子さん、写真家の林義夫さんとで「デンマークへ取材に行こう」と話がまとまり、初めての研究旅行が実現。いちばんに訪ねたのがウェグナーさんとフィン・ユールさんだったのです。どちらが先だったか忘れましたが、同じ日の午前と午後でこのふたりを訪ねるというなんとも贅沢な計画でした。

     

    質問したいことが山ほどあって、
    前日はよく眠れず。

    取材の申し込みは、当時ですから手紙です。難しいだろうと予想しながら妹尾さんと辞書を引き引き書いたものでしたが、ウェグナーさんはすぐに快諾の返事をくれました。単なる雑誌の取材ではなく、研究目的で伺いたいという熱意が伝わったのかも知れません。当日、僕たちは研究活動の一環である「チェアーズカード」、これは椅子の戸籍簿のようなものですが、デンマークの椅子約700脚分のファイルを持参しました。ウェグナーさんはそれを見て僕らの意図をしっかりと理解してくれたようです。自邸は山側が半地下になっていて、その下階すべてがアトリエで工作室と設計室、そしてライブラリーがあるのですが、寝室以外はすべて案内してくれました。上階のファミリールームはふだん来客を入れないといわれる部屋で、僕らはそこに通された初めての日本人だと思います。

    このとき写真家の林さんは、ウェグナー作品の四方向写真(4×5サイズのリバーサルフィルム)をプレゼントしました。ウェグナーさんは「自分では撮影してこなかったから」と大変喜んでくれました。そして後日「お礼に」と椅子の原寸図の白焼き30脚分が届いたのです。この取材以来ウェグナーさんとは20年以上の交流が続くことになり、直接お会いしたのは計8回に及びました。

    思い出すのは、その翌年に再訪したときのこと。今度はウェグナー作品約500脚のうち400脚ほどをイラストで描いた一覧表をファイルにして持って行きました。ところどころブランクがあります。日本ではどう調べてもわからなかったところで、それを示して「この部分を埋めてほしいのです」とウェグナーさんに頼みました。すると「それは君の仕事だろう。研究にもなるから自分でおやりなさい」との返事。あとで思えば、これも僕らを激励する言葉だったのだろうと想像します。

     

    どこへ行っても、
    「チェアーズカード」で、相手の態度が一変。

    このデンマーク旅行の目的は、作家訪問・取材とメーカー見学・取材、そして見本市めぐりでした。しかしながら、メーカーや見本市会場で取材を申し込んでも「日本人は真似をするから」となかなか受け入れてもらえません。そのたび僕らは「チェアーズカード」の箱を差し出すのです。見たとたん相手の態度はころりと変わって取材に協力してくれる、という場面を何度も繰り返すことになりました。

    たとえばヘアニングの国内向けの見本市。入り口でまず「写真はダメ」と釘を刺されました。僕は会場で研究用にベビーチェアを購入し、その後同じ会場で開催されていた若い家具デザイナーの展示会「モーベル・グルッペン」に入りました。そこでも冷たい態度は同じでしたが、例の箱を取り出して見せ、「空いている項目を埋めるために日本から来た」と説明すると、急に表情が和らぎ協力的になりました。そこで仲良くなったゴーモ・ハーケアさんは、のちにデンマークデザインの父コーア・クリントの研究者として本を出版。エリック・コーさんとは帰国後も連絡を取り合うようになります。彼はのちに国立デンマークデザインスコーレの校長先生になりました。

     

    今では信じられない、
    デンマークの危機的状況を目の当たりに。

    最初の渡航先にデンマークを選んだのは、実は前向きな理由からではありませんでした。「今行かないと間に合わない」と思ったのです。この時期のデンマークは主要産業である家具製造業の衰退が進み、職人は高齢化して工場は次々と閉鎖していました。原因は資源の枯渇、人材育成を怠ったことによる人手不足と競争力の低下、時代の流れを取り入れない旧態依然としたものづくり、そこへイタリアモダンの台頭が重なったことで、北欧は見向きもされなくなっていました。1945年から1960年代後半まで世界を席巻したスカンジナビアブームの完全なる終焉です。こうなると貴重な椅子や資料の散逸は免れません。木という素材は放っておくとダメになってしまうこともあって、急がなければならなかったのです。

    デンマーク取材に先立ってデンマーク通といわれる方達に前取材をしたところ、彼らから「今頃北欧に行っても何もないよ」「埃をかぶったものを研究してどうするの」と言われました。が、実際に行ってみると貴重なものがたくさん残っており、結論から言うとこの旅は、研究者としての道を踏み出した僕らにとってとてつもなく大きな収穫がありました。逆にこんな状況だったからこそ、名作椅子や資料を入手しやすかったとも言えるのです。

    その後もデンマークには何度も通いました。常連のようになったデンマーク最大の書店「アーノルドブスク」にはアンティーク本が充実した支店があり、そこで椅子を借りては1時間も2時間もかけて本を選びました。辞書を引きながらのおぼろげな理解度でも、その重要度が僕にはわかっていました。日本では絶対に手に入らないものがどんどん見つかる。座っている横に本の山ができていくんです(笑)。そこで買ったある展示会の図録は、東京都美術館で2022年夏から開催された「フィン・ユールとデンマークの椅子」展に展示しました。それほどのものが当時はすぐに手に入ったということです。インテリア雑誌「モビリア」のバックナンバーは棚2段半の250冊ほど揃いましたし、1800年代発行の建築雑誌「アーキテクテン」は合本した年鑑本で1930年代までのものがすべて揃っています。その中には「デンマークデザインミュージアム」が、かつて病院だった頃の姿と比較して掲載されていたりします。実に貴重なものです。

     

    工場見学で得たもの。
    それは捨てられたパーツと巨匠の「…」。

    危機的状況といえば、見学を申し込んだ2社も例外ではありませんでした。ヨハネス・ハンセン社は熟練工が2名しかいませんでしたし、カール・ハンセン社もYチェアのペーパーコード編み職人が2名、組み立て工は1名だけでした。ヨハネス・ハンセン社の後継メーカーであるPPモブラー社の工場では、不良パーツがごろごろ捨ててありました。理由を聞くと「節があるから使えない」「スーパーベンディング(成型)でシワが出た」と言います。それを資料としてもらううちトランクひとつがいっぱいになり、空港で「over wait!」と止められてしまいました。ほかのメンバーのトランクに少しずつ押し込んでもらってなんとか帰って来たのを覚えています。あのとき見つけた「バレットチェア」のパーツだけもらえなかったのが、今も残念で(笑)。

    ウェグナーさんと一緒にPPモブラー社を訪ねたことがありました。社長のアイナ・ペデルセンが元気な頃です。そこでポール・ケアホルムの作品を見つけたので、ウェグナーさんにどう思うかと質問しました。かつてウェグナーさんのアトリエを手伝ったことのある彼を、ウェグナーさんは「優秀なデザイナーだった」とひと言。尊敬するデザイナーは誰かと聞くと「チャールズ・イームズ」と、これまたひと言答えただけ。するとアイナが肘で僕を突つくんです。そして小声で「ほかのデザイナーのことをあまり聞いてはいけない」と言います。知らずになんでも尋ねる僕にアイナはハラハラしていたようでした。

     

    左:2016年春、中小企業家同友会の研修旅行でPPモブラー社を見学する織田氏。/ 右:PPモブラー社の資材室に、織田氏のイラストのポスターが。

     

    教えてもらえなかった廃番の理由が、
    帰国してからわかって。

    そのとき、こんなこともありました。廃番になったというあるウェグナーデザインの椅子について、どこがダメなのかを尋ねたら、ウェグナーさんはやっぱり答えません。このときもアイナが「聞かない方がいい」とそっと助言してきました。その翌年再びPP社に行った際、僕はその廃番品を購入できないかと伝えました。購入したい理由として日本での“ある出来事”をアイナに話したら、「そんなことがあったのか。じゃあ、ちょっと待って」と言って彼は工場の裏へ行き、10分ほどすると「あったあった!」とその椅子のフレームを見つけて戻って来ました。そして「研究用に、組み立てて送るよ」と言ってくれたのです。

     “ある出来事”というのはそれよりずっと前、日本でのことです。大阪のあるギャラリーに行ったとき、「スタッキングチェアPP-55」が置いてあるのを見つけ、購入を申し入れました。しかし残念なことに「織田さんが欲しがるなら貴重なものに違いないから、売らない」と言われてしまったのです(笑)。それで結局買えなかった椅子が、前述の廃番品であり、その話を聞いたアイナが協力してくれたというわけです。

    後日、約束通りアイナから組み立てたものが送られてきました。林義夫さんがその椅子を撮影するのをそばで見ていた僕は、ハッとしました。廃番になった理由がわかったからです。「PP-55」は座の下の「座貫き」が曲げの成型合板で、これが狂うために脚が歪むのではないか──。ただこれは僕の推測で、とうとうウェグナーさんにもアイナにも確かめることはできませんでした。

     

    PP-55

     

    2022/09/27 せんとぴゅあ(東川)にて
    聞き手/西川 佳乃

     


     

    <インタビューを終えて>

    数年前に中小企業家同友会の海外研修で、織田先生とフィンランド、スウェーデン、デンマークを旅しました。そのとき立ち寄った美術館のミュージアムショップや書店での先生の本の選び方は、もう気持ちがいいほどでした。旅先だというのに何の迷いもなく分厚い本を何冊も買い、ずっしりと垂れ下がるリュックを背負う先生。でも今回のお話を聞いて、それは先生にはごく普通の行動なんだと理解した次第です(笑)。(西川)

    どんどん本を手に取る先生。
    左:デンマークのまちオーデンセで。どこへ行っても鳥にやさしい先生、ポケットのパンを鴨たちに。/ 右:コペンハーゲンのジョージ・ジェンセン本店で、予約していたヘニング・コッペルデザインのスターリングシルバーのカトラリーを購入。

    コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
    東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

  • 第1話:織田コレクションの、1脚めとなった椅子。ここから私の〝椅子苦学〟が始まります。

    ル・コルビュジエ+ピエール・ジャンヌレ+シャルロット・ペリアン
    LC-4 シェーズ・ロング B-306(1928年)
    スチールのフレームに座が乗った構造で、パイプに巻いたゴムが円弧のフレームを支え、座の角度をスムーズに変化させられる。現行モデルのほかパイプの先端を溶接したタイプもあり、どちらも織田コレクションに所蔵。ペリアンがデザインした竹製のタイプが数年前にカッシーナで発表された。

     

    新婚時代に、給料天引きの10回払い。
    そして払い終わる頃に2脚目を。

    この椅子を購入したのは1972年、高島屋宣伝部で働いていた25歳のとき。結婚したばかりで、2DKのマンションに住んでいました。高島屋で売られていた30万円のこの椅子を、1割引にしてもらったうえ「社員買物帳の店着(テンチャク)」というのがあって、これを使うとさらに1割引になりしかも10回分割の給料天引きが可能だったのです。それにしても給料が4万円、家賃が2万円台の頃ですから、大きな買い物でした。

    「LC-4」は、名作椅子を持つことがステータスだったあの時代に憧れていた一脚。宣伝部には海外のインテリア雑誌がたくさんあって、ドイツの「シェーナー・ボーネン」やイタリアの「インテルニ」なんかに名作椅子が「ステータスチェア」として載っていました。椅子は体を支える支持具であると同時に、地位の象徴でもある。組織のトップを〝チェアマン〟というでしょう。いい椅子がほしいと思うのは、深層心理の表れのようです。僕は組織が苦手で自由でいたいから、地位を上げたいとはまったく思わないけれど。

    百貨店は外国展をやるために、バイヤーが海外から家具などを買い付けて来ます。それが売れ残るとバーゲンセールに出る。今思えば、「LC-4」が蟻地獄への一歩だったんですね(笑)。2脚目の「ペルニッラ」(ブルーノ・マットソン)を買うまで、1年もなかったから。

    27歳のとき娘が、30歳で息子が生まれました。「LC-4」は馬の毛皮が張ってあったので、子どもたちは滑り台にして遊んでいましたね。あるときボーナスが30数万円出ました。あの頃は現金支給ですから家に帰って家内に封筒を渡します。中身が3万円しかない。大ゲンカになりました。こんな買い物をしているからそうなるのですが、僕はそのぶん毎日夜中まで社外の仕事をしてお金をつくりました。しかしそれでも間に合わないんです。

     

    高島屋宣伝部の僕の席。新人が通路側なのを逆手に取ってイラスト作品を並べたら、他チームの人の目にとまり北海道物産展のメインヴィジュアルの新巻鮭を描くことに。

     

    椅子を買うのはもうやめよう。
    そう思ったこともあったのです。

    椅子が7、8脚のうちは、自分で使うだけで満足していました。ただインテリア関係の本もどんどん買うものだから部屋が手狭になり、同じマンションの1階下の2LDKに引越すことに。しかし椅子はその後もふえていき、20~30脚になったときに4DKのマンションを購入。それでも椅子の置き場所に困り、同僚の家に置いてもらったり苦労していました。経済的にも厳しく、椅子の支払いに追われていつも手元にお金がありません。この頃、さすがにもう椅子を買うのはやめようと思った出来事がありました。ある日幼稚園児の娘が熱を出したんです。病院に連れて行こうと思っても、財布にお金が100円くらいしかないんですよ。同じマンションの上の階に住んでいた女医さんに往診してもらい、ことなきを得ましたが、このときばかりは心から反省したものです。しかし、娘が元気になるとまた椅子がほしくなるのです。

    これまで何人の人に、「よく奥様がついてきてくれましたね」と言われたことでしょう。ただ、こんな生活の中でも僕は家内がほしいと言ったものはほとんど買っています。働きづめに働いてちゃんと収入を得て、苦労をかけている罪滅ぼしはしてきたつもりなんです。もちろん今も、償いは続いています(笑)。

     

    このアスコットシャツは、大坂ミナミ戎橋筋商店街にあった紳士洋品店「TORAYA」のもの。その後も袖や襟が擦り切れるまで着たシャツを直してもらうなど長い付き合い。

     

    デパート勤務とフリーランス、イラストレーションと椅子。
    いつも二足の草鞋です。

    高島屋に入社するとき、僕は会社に「正社員ではなく嘱託にしてほしい」と頼みました。仕事がワンパターンになるのを避けたいのと、給料以外の収入を得るために社外の仕事をしたかったからです。たとえばレギュラーの仕事で、「オール生活」という月刊経済誌のイラストレーションを描きました。記事中の挿絵は1点1500円。表紙のギャラは忘れましたが、この仕事で初めてアクリル絵具のリキテックスを使い、「包む」をテーマに茶壺、酒樽、真鯛の塩釜焼きなどを描きました。毎月の振り込みが待ち遠しかったものです。まだエアブラシなどはなくすべて筆一本で描いたその作品が、大学時代に憧れていた「ソサエティ・オブ・イラストレーターズ」(ニューヨーク)の年鑑に4点も掲載されたのはうれしかったですね。この頃も含めて、僕はどうも「二足の草鞋」で生きる人間のようです。独立してイラストレーション事務所を開いてからも、東海大学の教授になってからも椅子の研究との二足ですから。

     

    高島屋の野球大会で。この頃の体重は48Kgでした(笑)。

     

    数十の椅子の支払いに追われながら、
    魚と登山に癒される日々。

    購入した4DKのマンションでは、魚を700匹ほど飼育しました。琵琶湖のアユなんかを採集してきて、180cm幅の大きなものから重さ1tのもの、60cm幅の小さなものまで12の水槽に入れていました。そうそう、あるとき淀川の魚を捕ろうと投網を打ったら川底に引っかかり、潜って外したこともあったなぁ。それ4月初旬でしかも夜ですよ(笑)。水替えも大仕事でした。水道水をカルキ抜きしてから入れなければなりません。餌の小魚は子どもたちと近所の池にすくいに行って、別な水槽で飼いました。ウナギやモズクガニが脱走して行方不明になり、あとでウナギはミイラ状態で、カニは冷蔵庫のモーター室から綿埃だらけで出てきたことも。大変は大変なのですが、仕事に追われている僕にとって本当にこれが癒しになっていました。

    癒しといえばもうひとつ、登山があります。お正月を入れて年間15日の休日の中で、年に1度だけ5日間ほどの連休を取って北アルプスを縦走しました。そのために数カ月休みなしで働き、出発の2週間前くらいからは、子どもを背負ってマンションの階段を10階まで何度も往復して足慣らしをするのです。あの頃の登山は道も道具も今ほど整っていませんから、濃霧で道に迷ったり、剱岳から黒部川に向かう途中で膝を痛めて足を引きずりながら下山したり、カーブして出口が見えないトンネル内でマッチを擦りながらやっと目的地に辿り着くなど、結構危ない目にも遭いました。

     

    どんどんふえる椅子に、気持ちが満たされる一方で自宅は手狭になっていき─────。

     

    椅子への興味は、父の影響。
    魚好きは、故郷高知の幼少時代から。

    川に潜った話をしましたが、僕はNHK特集の「仁淀ブルー」で話題になった高知県の仁淀川沿いの小さな町の出身で、自然の中で育ちました。川に潜ってアユやウナギを獲って、ときには旅館をしていた母に届けてお小遣いをもらったこともあります。父は宮内庁の役人で、のちに故郷に戻って役場勤務、病院の事務長、神主といろいろな仕事をした人でした。家具が好きで、田舎にはいいものがないからと言って大阪にやって来ては家具を見にゆくことを楽しみにしていました。僕が大学生(大阪芸術大学)の頃は、アクタスの前身である「湯川ヨーロッパランド」などで一緒に家具を見て回ったものです。バーゲンでジョージ・ナカシマやアアルトの椅子が3万円くらいでした。仕送りが月1万円の時代です。

    そんなわけで、僕のアパートは飛騨産業のアームチェア2脚、コーヒーテーブル、ロッキングチェア、小3のときに誂えた勉強机と椅子がある、大学生らしからぬ部屋でした。

     

    2022/09/01 せんとぴゅあ(東川)にて
    聞き手/西川 佳乃

     


     

    <インタビューを終えて>

    「織田先生が椅子を解説する中でチラッと出る面白いエピソードを、いつかしっかり聞いてみたい」とずっと思っていました。この夏先生とお会いしたときにそれを伝え、「ものすごく入手に苦労した椅子ベスト5とかありませんか?」と聞いたら、「そんなものじゃないよ」という答え。ほどなく先生自ら協力会に提案してくださり、この連載の実現に至りました。第1回はやはり、1400脚を超える椅子の1脚目である「LC-4」。この椅子の思いきりのいい「買い方」と、それを可能にする「稼ぎ方」に、織田コレクションの魔力(笑)を見た思いがします。それにしても、やっぱり先生の美しいものへの愛はどこどこまでも深い。次回から、さらなる深みを見せてもらいたいと思います(西川)。

    コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
    東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。