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Interview

  • 織田コレクションの、1脚めとなった椅子。ここから私の〝椅子苦学〟が始まります。

    ル・コルビュジエ+ピエール・ジャンヌレ+シャルロット・ペリアン
    LC-4 シェーズ・ロング B-306(1928年)
    スチールのフレームに座が乗った構造で、パイプに巻いたゴムが円弧のフレームを支え、座の角度をスムーズに変化させられる。現行モデルのほかパイプの先端を溶接したタイプもあり、どちらも織田コレクションに所蔵。ペリアンがデザインした竹製のタイプが数年前にカッシーナで発表された。

     

    新婚時代に、給料天引きの10回払い。
    そして払い終わる頃に2脚目を。

    この椅子を購入したのは1972年、高島屋宣伝部で働いていた25歳のとき。結婚したばかりで、2DKのマンションに住んでいました。高島屋で売られていた30万円のこの椅子を、1割引にしてもらったうえ「社員買物帳の店着(テンチャク)」というのがあって、これを使うとさらに1割引になりしかも10回分割の給料天引きが可能だったのです。それにしても給料が4万円、家賃が2万円台の頃ですから、大きな買い物でした。

    「LC-4」は、名作椅子を持つことがステータスだったあの時代に憧れていた一脚。宣伝部には海外のインテリア雑誌がたくさんあって、ドイツの「シェーナー・ボーネン」やイタリアの「インテルニ」なんかに名作椅子が「ステータスチェア」として載っていました。椅子は体を支える支持具であると同時に、地位の象徴でもある。組織のトップを〝チェアマン〟というでしょう。いい椅子がほしいと思うのは、深層心理の表れのようです。僕は組織が苦手で自由でいたいから、地位を上げたいとはまったく思わないけれど。

    百貨店は外国展をやるために、バイヤーが海外から家具などを買い付けて来ます。それが売れ残るとバーゲンセールに出る。今思えば、「LC-4」が蟻地獄への一歩だったんですね(笑)。2脚目の「ペルニッラ」(ブルーノ・マットソン)を買うまで、1年もなかったから。

    27歳のとき娘が、30歳で息子が生まれました。「LC-4」は馬の毛皮が張ってあったので、子どもたちは滑り台にして遊んでいましたね。あるときボーナスが30数万円出ました。あの頃は現金支給ですから家に帰って家内に封筒を渡します。中身が3万円しかない。大ゲンカになりました。こんな買い物をしているからそうなるのですが、僕はそのぶん毎日夜中まで社外の仕事をしてお金をつくりました。しかしそれでも間に合わないんです。

     

    高島屋宣伝部の僕の席。新人が通路側なのを逆手に取ってイラスト作品を並べたら、他チームの人の目にとまり北海道物産展のメインヴィジュアルの新巻鮭を描くことに。

     

    椅子を買うのはもうやめよう。
    そう思ったこともあったのです。

    椅子が7、8脚のうちは、自分で使うだけで満足していました。ただインテリア関係の本もどんどん買うものだから部屋が手狭になり、同じマンションの1階下の2LDKに引越すことに。しかし椅子はその後もふえていき、20~30脚になったときに4DKのマンションを購入。それでも椅子の置き場所に困り、同僚の家に置いてもらったり苦労していました。経済的にも厳しく、椅子の支払いに追われていつも手元にお金がありません。この頃、さすがにもう椅子を買うのはやめようと思った出来事がありました。ある日幼稚園児の娘が熱を出したんです。病院に連れて行こうと思っても、財布にお金が100円くらいしかないんですよ。同じマンションの上の階に住んでいた女医さんに往診してもらい、ことなきを得ましたが、このときばかりは心から反省したものです。しかし、娘が元気になるとまた椅子がほしくなるのです。

    これまで何人の人に、「よく奥様がついてきてくれましたね」と言われたことでしょう。ただ、こんな生活の中でも僕は家内がほしいと言ったものはほとんど買っています。働きづめに働いてちゃんと収入を得て、苦労をかけている罪滅ぼしはしてきたつもりなんです。もちろん今も、償いは続いています(笑)。

     

    このアスコットシャツは、大坂ミナミ戎橋筋商店街にあった紳士洋品店「TORAYA」のもの。その後も袖や襟が擦り切れるまで着たシャツを直してもらうなど長い付き合い。

     

    デパート勤務とフリーランス、イラストレーションと椅子。
    いつも二足の草鞋です。

    高島屋に入社するとき、僕は会社に「正社員ではなく嘱託にしてほしい」と頼みました。仕事がワンパターンになるのを避けたいのと、給料以外の収入を得るために社外の仕事をしたかったからです。たとえばレギュラーの仕事で、「オール生活」という月刊経済誌のイラストレーションを描きました。記事中の挿絵は1点1500円。表紙のギャラは忘れましたが、この仕事で初めてアクリル絵具のリキテックスを使い、「包む」をテーマに茶壺、酒樽、真鯛の塩釜焼きなどを描きました。毎月の振り込みが待ち遠しかったものです。まだエアブラシなどはなくすべて筆一本で描いたその作品が、大学時代に憧れていた「ソサエティ・オブ・イラストレーターズ」(ニューヨーク)の年鑑に4点も掲載されたのはうれしかったですね。この頃も含めて、僕はどうも「二足の草鞋」で生きる人間のようです。独立してイラストレーション事務所を開いてからも、東海大学の教授になってからも椅子の研究との二足ですから。

     

    高島屋の野球大会で。この頃の体重は48Kgでした(笑)。

     

    数十の椅子の支払いに追われながら、
    魚と登山に癒される日々。

    購入した4DKのマンションでは、魚を700匹ほど飼育しました。琵琶湖のアユなんかを採集してきて、180cm幅の大きなものから重さ1tのもの、60cm幅の小さなものまで12の水槽に入れていました。そうそう、あるとき淀川の魚を捕ろうと投網を打ったら川底に引っかかり、潜って外したこともあったなぁ。それ4月初旬でしかも夜ですよ(笑)。水替えも大仕事でした。水道水をカルキ抜きしてから入れなければなりません。餌の小魚は子どもたちと近所の池にすくいに行って、別な水槽で飼いました。ウナギやモズクガニが脱走して行方不明になり、あとでウナギはミイラ状態で、カニは冷蔵庫のモーター室から綿埃だらけで出てきたことも。大変は大変なのですが、仕事に追われている僕にとって本当にこれが癒しになっていました。

    癒しといえばもうひとつ、登山があります。お正月を入れて年間15日の休日の中で、年に1度だけ5日間ほどの連休を取って北アルプスを縦走しました。そのために数カ月休みなしで働き、出発の2週間前くらいからは、子どもを背負ってマンションの階段を10階まで何度も往復して足慣らしをするのです。あの頃の登山は道も道具も今ほど整っていませんから、濃霧で道に迷ったり、剱岳から黒部川に向かう途中で膝を痛めて足を引きずりながら下山したり、カーブして出口が見えないトンネル内でマッチを擦りながらやっと目的地に辿り着くなど、結構危ない目にも遭いました。

     

    どんどんふえる椅子に、気持ちが満たされる一方で自宅は手狭になっていき─────。

     

    椅子への興味は、父の影響。
    魚好きは、故郷高知の幼少時代から。

    川に潜った話をしましたが、僕はNHK特集の「仁淀ブルー」で話題になった高知県の仁淀川沿いの小さな町の出身で、自然の中で育ちました。川に潜ってアユやウナギを獲って、ときには旅館をしていた母に届けてお小遣いをもらったこともあります。父は宮内庁の役人で、のちに故郷に戻って役場勤務、病院の事務長、神主といろいろな仕事をした人でした。家具が好きで、田舎にはいいものがないからと言って大阪にやって来ては家具を見にゆくことを楽しみにしていました。僕が大学生(大阪芸術大学)の頃は、アクタスの前身である「湯川ヨーロッパランド」などで一緒に家具を見て回ったものです。バーゲンでジョージ・ナカシマやアアルトの椅子が3万円くらいでした。仕送りが月1万円の時代です。

    そんなわけで、僕のアパートは飛騨産業のアームチェア2脚、コーヒーテーブル、ロッキングチェア、小3のときに誂えた勉強机と椅子がある、大学生らしからぬ部屋でした。

     

    2022/09/01 せんとぴゅあ(東川)にて
    聞き手/西川 佳乃

     


     

    <インタビューを終えて>

    「織田先生が椅子を解説する中でチラッと出る面白いエピソードを、いつかしっかり聞いてみたい」とずっと思っていました。この夏先生とお会いしたときにそれを伝え、「ものすごく入手に苦労した椅子ベスト5とかありませんか?」と聞いたら、「そんなものじゃないよ」という答え。ほどなく先生自ら協力会に提案してくださり、この連載の実現に至りました。第1回はやはり、1400脚を超える椅子の1脚目である「LC-4」。この椅子の思いきりのいい「買い方」と、それを可能にする「稼ぎ方」に、織田コレクションの魔力(笑)を見た思いがします。それにしても、やっぱり先生の美しいものへの愛はどこどこまでも深い。次回から、さらなる深みを見せてもらいたいと思います(西川)。

    コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
    東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。