第10話
ポール・ケアホルム
PK13(1974年)
シートが宙に浮いたように見える革新的なデザインのこの椅子は、ケアホルムが敬愛するミース・ファン・デル・ローエの名作「ブルノチェア」がルーツである。脚と座の前部分が離れているうえ脚に貫もないため横揺れに弱く、発売後まもなく製造中止になった。織田コレクションのものは最初につくられたわずかな製品の中でも、肘に革製のパッドが付いた極めて珍しいモデル。別名EKC13。
2024年6月29日から東京のパナソニック汐留美術館で「織田コレクション 北欧モダンデザインの名匠ポール・ケアホルム展 ── 時代を超えたミニマリズム ── 」が始まりました。美術館で開かれるケアホルム単独の展覧会は日本初。「やる以上は、一度しかできないという気持ちで全精力を注いだ」と話す織田先生に、ケアホルムへの思いや展覧会で伝えたかったこと、そして会場にも展示されていた「PK13」についてお話を聞きました。今回は一問一答形式でお届けします。
── ケアホルムは以前から取り上げたかったデザイナーです。美術館側から声をかけていただいたとき、約100坪という床面積から、コレクションの数が50点ほどのケアホルムがぴったりだと考え提案しました。また会場構成についてはパリを拠点に活躍する建築家の田根剛さんに依頼してはどうかと打診しました。世界を飛び回る彼への依頼は難しいかとも思いましたが、美術館で議論を重ねた結果、正式に依頼が実現したんです。
オープニングセレモニーにて。左から東川の菊地町長、田根さん、織田先生、旭川家具工業協同組合の藤田理事長。
── 田根さんは北海道旭川にあった東海大学の学生でした。建築学科に在籍しながらデザイン学科の僕の講義をよく聞きに来ていたんです。優秀なうえに熱心な彼は、大学の交換留学制度(原則半年間)を利用してスウェーデンの美大HDKで学んだあと、さらにもう半年シャルマス工科大学に通わせてほしいと大学に直談判したほどの勉強家でした。前例のないことでしたが教授会は承認し、彼は希望を叶えたのです。学生時代はそれほど交流はありませんでしたが、建築家となってからは旭川家具や東川町の事業の関係で会う機会が多く、その活躍にはつねに注目し応援してきました。
── やはりエストニア国立博物館のコンペに勝ったことが大きい。その土地の歴史を調べて正面から向き合う姿勢に共感しました。今回の展覧会でも、彼の感性で絶対にいい空間ができると確信していたので、僕は脇役に徹しようと決めていました。「老いては子に従え」です(笑)。最初に何か言ってしまうとどうしてもニーズに応えようとするでしょう。だから基本的にリクエストはなし。委ねる以上は信頼して任せた方がいいんです。そして予想通り、最初に提案してくれたプランが素晴らしく、あとは微調整でした。先日完成した会場を見て、まさに彼がケアホルムの眼となり頭脳となったことを実感しました。
たとえばスペースを3つに分け、1.生い立ちや原点、2.家具デザイン、3.現代のケアホルム作品、と展開していく手法や、最後に美術館所蔵のルオー・コレクションをケアホルムの椅子に腰掛けて見られるようにするなどのアイデアがユニーク。また、会場の入口と出口を同じにすることで、戻って来るときにもう一度違う角度から作品を見られるようにしたのも新しい発想です。
来場者はかわるがわる腰掛けて、椅子とルオーの両方を鑑賞していました。(「ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム」展示風景より / 写真提供:パナソニック汐留美術館 / 撮影:Yukie Mikawa)
── ふたつめのスペースは、黒い空間に照明で作品を浮かび上がらせる仕組みです。高さに変化をつけた展示台にガラスケースなしで作品を乗せているから、顔を近付けて見られる。テーブルの繊細な木目まではっきりわかります。これからご覧になる方は会場のつくりもぜひよく見てほしいんですが、たとえば極力薄くつくった展示台は、壁からわずかに離してジョイントされ、脚はカンチレバー構造になっています。このあたりは完全に建築的手法と言っていいでしょう。田根さんは「展示はミニマルに。解説は作品に語らせたい」と言い、通常はパネルで示す作品解説を僕の声で聞いてもらうことを提案した。しかもスピーカーはどこにも見えないから、まるで作品から聞こえてくるような気がしたでしょう?あれは展示台の下にシート状のスピーカーを取り付けて流しているんです。また展示台のエッジには、ケアホルムが遺した数少ない言葉を記載。まさに、ケアホルムのミニマリズムの精神が会場のあらゆる場面に反映されているのです。
周囲のノイズを消し去ることで作品を際立たせた展示。(「ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム」展示風景より / 写真提供:パナソニック汐留美術館 / 撮影:Yukie Mikawa)
── まずケアホルムが、日本ではまだあまり知られていません。あのフィン・ユールだって、世界どころかデンマークですら多くの人が知らなかったけれど、以前この連載でも話した「フィン・ユール追悼展」(第5話に詳細)によってその名が日本人の間に広まり、それがデンマークでも話題になって彼の存在が見直されていきました。同じようにケアホルムも、今回の展覧会で彼の厳格で繊細なデザインの魅力が多くの人に伝わればうれしい。51年という決して長くない人生の中で、彼はいいものをたくさん遺しました。なにしろ大学の卒業制作が製品化されて、今も輝きを失うことなく愛され、製造され続けているのですから。汐留美術館の学芸員の言葉を借りれば、まさに「早熟の天才」です。ケアホルムはこれから世界的にも注目されていくだろうと思います。この展覧会が彼の再評価に繋がってくれることを願っています。
── 追加で手に入れた作品があったのでそれを描いたほか、以前のイラストレーションが見当たらなかったりして、合計130点ほど描きました。ところがね、今は手で描かない時代でしょ。0.1mmのロットリングが売ってないんです。仕方がないので0.2mmで描いて、カッターで削って細くしました。これまで1万点以上のイラストレーションを描いていますが、近頃では目は見えなくなる、手は指を怪我をしてから動かない、ペンは廃番の三重苦(笑)。でもケアホルムの厳格なデザインですから、厳格に描かないとね(笑)。現物も、足りない作品がいくつかあったので、知り合いのコレクターであるウィリアム・デュエルさんに何点か借りるなどして揃えました。
3つめのスペースに展示されている、織田先生が描いた145点のイラストレーション(原画)。(「ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム」展示風景より / 写真提供:パナソニック汐留美術館 / 撮影:Yukie Mikawa)
── 彼は幼い頃に左股関節に障害を負い、生涯足を引くようになった。そうしたハンデが反骨精神を育んだのか、1950年代のハンディクラフト全盛期に、工業デザインを目指してアプローチしていった。科学と自分の美意識との整合性を取ろうとしたんです。ウェグナーやフィン・ユール、オーレ・ヴァンシャーなどが、自然素材を使って手加工でつくる有機的なフォルムの家具で人気を博した時代に、スチールや大理石、ガラス、アルミニウムを使い、量産を目指した。ところが、0.1mmまで正確さを追求する完璧主義が邪魔をしました。木目は常に並行に、スチールも革も素材はすべて最高級、パーツは各分野のトップクラスの職人につくらせました。木工はアイナー・ペデルセン、金属加工はヘアルフ・ポールセン、椅子張りはイワン・スレクターという具合ですから、思ったように量産が進まなかったのです。
そうした厳格さの中にある優美さと危うさが、「家具の建築家」といわれる彼のデザインの魅力だと僕は思っています。無機的で幾何学的な美しさ、直線と曲線の究極の組み合わせ。そして極限まで要素を減らした緊張感のある造形は、素材使いのコントラストも含めて、本当に美しい。わかりやすいよう、この対極にある例をひとつ出しましょうか。若者たちがジーンズの穴をあけて履いているの、あれ僕は嫌いですね(笑)。そういうジーンズを履いた子が実家に帰ったら、寝ている間におばあちゃんが繕ってくれてたって笑い話があるけれど(先生と西川大爆笑)。
── 「PK13」は1980年頃、東京のショップで見つけました。ちょうど椅子の研究室「チェアーズ」を設立した頃です。譲ってもらえないかと聞くと、お店の人は「非売品なので……」と言いました。稀少で資料性のある製品なので残しておきたいということです。その日は諦めましたが、それから何度も通ううち役員と親しくなりました。徐々に信頼関係が生まれ、僕がやろうとしていることを認めてくれて、そしてとうとう譲ってもらえることになったのです。僕のところに行けば、研究資料として生かされ確実に残ると判断してくれたのだと思います。時代や状況が変われば、企業が所有する1脚の椅子などどうなるかわかりません。どこかに打ち捨てられた可能性だってある。この椅子は僕のもとに来るのがいちばんよかった、と自負しています。見ての通り「PK13」は貴重なうえに大変危ういので、座るのは禁止です。もし破断したら誰にも直せません。特にこの肘に革パッドがあるものは、たぶん4脚くらいしかつくられていない。パッドなしは、もしかしてたまにオークションに出ることがあるかも知れませんが、デンマークやアメリカにはマニアックなファンがたくさんいますから、値段が一体どこまで上がることやら(笑)。
2024/7/4 せんとぴゅあ(東川)にて
聞き手/西川 佳乃
インタビューを終えて
6月初旬にお電話したら、「6月はもう1日も空いていなくて」ということで7月に入ってすぐのインタビューになりました。先生は「ポール・ケアホルム展」のオープニングから戻ったばかり。展覧会の開幕ほやほや話をお聞きすることができました。インタビューの終わり頃、先生がしみじみと話されたのが内覧会をご覧になったデンマーク大使の言葉。「織田さんは日本とデンマークを繋ぐデザイン大使ですね」。このひと言が本当にうれしく心に残ったそうです。そんな展覧会を、私は初日に取材することができましたが、今日のお話を聞いてもう一度見たくなりました。さっそく、会期終盤に再訪する計画を立てたところです。
コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。
取材はいつも2時間ほど。ノートが取りやすいよう先生が席を貸してくださる。
美術館のあるパナソニック東京汐留ビルの地下通路には、こんな大きな電飾看板が。