第2話

1984年にアトリエを訪ねて以来、20年の交流があったウェグナーさん。
ある日突然、この椅子が送られてきて。

1984年にアトリエを訪ねて以来、20年の交流があったウェグナーさん。<ある日突然、この椅子が送られてきて。

ハンス・J・ウェグナー
フープチェア(1986年)

科学技術の進歩によって新しいデザインが可能になる、ということを示す好例。当初金属パイプでデザインされていた丸いフレームを、PPモブラー社の二代目ソーレン・ペデルセンが木の成型でつくる機械を考案して現在の構造を実現した。放射状のロープワークが特徴で、ヨットに使用するロープを小さな金具で止めてある。背当たりを考えて結び目をつくらないためのアイデア。

手紙には「研究用に」。
僕がこの椅子を持っていないことを知っていた。

フープチェアは、ある日突然大阪箕面市の僕のマンションに送られてきました。1986年に製品化されてすぐ、1987年のことです。ウェグナーさんからの手紙が入っており、「研究用にプレゼントする」と書かれていました。ウェグナーさんは、研究やデザイン振興のためには協力を惜しまない方で、故郷のトゥナー市にできたウェグナー博物館の展示品もすべて寄贈しています。フープチェアを受け取ったとき、僕を研究者として認めてくれているのだと改めて思いました。

ウェグナーさんと初めてお会いしたのは、その3年前の1984年、デンマークのアトリエを訪ねたときです。いつも講演や取材でお話ししているように、僕は1980年に私設の椅子研究室「チェアーズ」を立ち上げています。そのメンバーである京都市立芸術大学の妹尾衣子さん、写真家の林義夫さんとで「デンマークへ取材に行こう」と話がまとまり、初めての研究旅行が実現。いちばんに訪ねたのがウェグナーさんとフィン・ユールさんだったのです。どちらが先だったか忘れましたが、同じ日の午前と午後でこのふたりを訪ねるというなんとも贅沢な計画でした。

質問したいことが山ほどあって、
前日はよく眠れず。

取材の申し込みは、当時ですから手紙です。難しいだろうと予想しながら妹尾さんと辞書を引き引き書いたものでしたが、ウェグナーさんはすぐに快諾の返事をくれました。単なる雑誌の取材ではなく、研究目的で伺いたいという熱意が伝わったのかも知れません。当日、僕たちは研究活動の一環である「チェアーズカード」、これは椅子の戸籍簿のようなものですが、デンマークの椅子約700脚分のファイルを持参しました。ウェグナーさんはそれを見て僕らの意図をしっかりと理解してくれたようです。自邸は山側が半地下になっていて、その下階すべてがアトリエで工作室と設計室、そしてライブラリーがあるのですが、寝室以外はすべて案内してくれました。上階のファミリールームはふだん来客を入れないといわれる部屋で、僕らはそこに通された初めての日本人だと思います。

このとき写真家の林さんは、ウェグナー作品の四方向写真(4×5サイズのリバーサルフィルム)をプレゼントしました。ウェグナーさんは「自分では撮影してこなかったから」と大変喜んでくれました。そして後日「お礼に」と椅子の原寸図の白焼き30脚分が届いたのです。この取材以来ウェグナーさんとは20年以上の交流が続くことになり、直接お会いしたのは計8回に及びました。

思い出すのは、その翌年に再訪したときのこと。今度はウェグナー作品約500脚のうち400脚ほどをイラストで描いた一覧表をファイルにして持って行きました。ところどころブランクがあります。日本ではどう調べてもわからなかったところで、それを示して「この部分を埋めてほしいのです」とウェグナーさんに頼みました。すると「それは君の仕事だろう。研究にもなるから自分でおやりなさい」との返事。あとで思えば、これも僕らを激励する言葉だったのだろうと想像します。

どこへ行っても、
「チェアーズカード」で、相手の態度が一変。

このデンマーク旅行の目的は、作家訪問・取材とメーカー見学・取材、そして見本市めぐりでした。しかしながら、メーカーや見本市会場で取材を申し込んでも「日本人は真似をするから」となかなか受け入れてもらえません。そのたび僕らは「チェアーズカード」の箱を差し出すのです。見たとたん相手の態度はころりと変わって取材に協力してくれる、という場面を何度も繰り返すことになりました。

たとえばヘアニングの国内向けの見本市。入り口でまず「写真はダメ」と釘を刺されました。僕は会場で研究用にベビーチェアを購入し、その後同じ会場で開催されていた若い家具デザイナーの展示会「モーベル・グルッペン」に入りました。そこでも冷たい態度は同じでしたが、例の箱を取り出して見せ、「空いている項目を埋めるために日本から来た」と説明すると、急に表情が和らぎ協力的になりました。そこで仲良くなったゴーモ・ハーケアさんは、のちにデンマークデザインの父コーア・クリントの研究者として本を出版。エリック・コーさんとは帰国後も連絡を取り合うようになります。彼はのちに国立デンマークデザインスコーレの校長先生になりました。

今では信じられない、
デンマークの危機的状況を目の当たりに。

最初の渡航先にデンマークを選んだのは、実は前向きな理由からではありませんでした。「今行かないと間に合わない」と思ったのです。この時期のデンマークは主要産業である家具製造業の衰退が進み、職人は高齢化して工場は次々と閉鎖していました。原因は資源の枯渇、人材育成を怠ったことによる人手不足と競争力の低下、時代の流れを取り入れない旧態依然としたものづくり、そこへイタリアモダンの台頭が重なったことで、北欧は見向きもされなくなっていました。1945年から1960年代後半まで世界を席巻したスカンジナビアブームの完全なる終焉です。こうなると貴重な椅子や資料の散逸は免れません。木という素材は放っておくとダメになってしまうこともあって、急がなければならなかったのです。

デンマーク取材に先立ってデンマーク通といわれる方達に前取材をしたところ、彼らから「今頃北欧に行っても何もないよ」「埃をかぶったものを研究してどうするの」と言われました。が、実際に行ってみると貴重なものがたくさん残っており、結論から言うとこの旅は、研究者としての道を踏み出した僕らにとってとてつもなく大きな収穫がありました。逆にこんな状況だったからこそ、名作椅子や資料を入手しやすかったとも言えるのです。

その後もデンマークには何度も通いました。常連のようになったデンマーク最大の書店「アーノルドブスク」にはアンティーク本が充実した支店があり、そこで椅子を借りては1時間も2時間もかけて本を選びました。辞書を引きながらのおぼろげな理解度でも、その重要度が僕にはわかっていました。日本では絶対に手に入らないものがどんどん見つかる。座っている横に本の山ができていくんです(笑)。そこで買ったある展示会の図録は、東京都美術館で2022年夏から開催された「フィン・ユールとデンマークの椅子」展に展示しました。それほどのものが当時はすぐに手に入ったということです。インテリア雑誌「モビリア」のバックナンバーは棚2段半の250冊ほど揃いましたし、1800年代発行の建築雑誌「アーキテクテン」は合本した年鑑本で1930年代までのものがすべて揃っています。その中には「デンマークデザインミュージアム」が、かつて病院だった頃の姿と比較して掲載されていたりします。実に貴重なものです。

工場見学で得たもの。
それは捨てられたパーツと巨匠の「…」。

危機的状況といえば、見学を申し込んだ2社も例外ではありませんでした。ヨハネス・ハンセン社は熟練工が2名しかいませんでしたし、カール・ハンセン社もYチェアのペーパーコード編み職人が2名、組み立て工は1名だけでした。ヨハネス・ハンセン社の後継メーカーであるPPモブラー社の工場では、不良パーツがごろごろ捨ててありました。理由を聞くと「節があるから使えない」「スーパーベンディング(成型)でシワが出た」と言います。それを資料としてもらううちトランクひとつがいっぱいになり、空港で「over wait!」と止められてしまいました。ほかのメンバーのトランクに少しずつ押し込んでもらってなんとか帰って来たのを覚えています。あのとき見つけた「バレットチェア」のパーツだけもらえなかったのが、今も残念で(笑)。

ウェグナーさんと一緒にPPモブラー社を訪ねたことがありました。社長のアイナ・ペデルセンが元気な頃です。そこでポール・ケアホルムの作品を見つけたので、ウェグナーさんにどう思うかと質問しました。かつてウェグナーさんのアトリエを手伝ったことのある彼を、ウェグナーさんは「優秀なデザイナーだった」とひと言。尊敬するデザイナーは誰かと聞くと「チャールズ・イームズ」と、これまたひと言答えただけ。するとアイナが肘で僕を突つくんです。そして小声で「ほかのデザイナーのことをあまり聞いてはいけない」と言います。知らずになんでも尋ねる僕にアイナはハラハラしていたようでした。

左:2016年春、中小企業家同友会の研修旅行でPPモブラー社を見学する織田氏。/ 右:PPモブラー社の資材室に、織田氏のイラストのポスターが。

教えてもらえなかった廃番の理由が、
帰国してからわかって。

そのとき、こんなこともありました。廃番になったというあるウェグナーデザインの椅子について、どこがダメなのかを尋ねたら、ウェグナーさんはやっぱり答えません。このときもアイナが「聞かない方がいい」とそっと助言してきました。その翌年再びPP社に行った際、僕はその廃番品を購入できないかと伝えました。購入したい理由として日本での“ある出来事”をアイナに話したら、「そんなことがあったのか。じゃあ、ちょっと待って」と言って彼は工場の裏へ行き、10分ほどすると「あったあった!」とその椅子のフレームを見つけて戻って来ました。そして「研究用に、組み立てて送るよ」と言ってくれたのです。

“ある出来事”というのはそれよりずっと前、日本でのことです。大阪のあるギャラリーに行ったとき、「スタッキングチェアPP-55」が置いてあるのを見つけ、購入を申し入れました。しかし残念なことに「織田さんが欲しがるなら貴重なものに違いないから、売らない」と言われてしまったのです(笑)。それで結局買えなかった椅子が、前述の廃番品であり、その話を聞いたアイナが協力してくれたというわけです。

後日、約束通りアイナから組み立てたものが送られてきました。林義夫さんがその椅子を撮影するのをそばで見ていた僕は、ハッとしました。廃番になった理由がわかったからです。「PP-55」は座の下の「座貫き」が曲げの成型合板で、これが狂うために脚が歪むのではないか──。ただこれは僕の推測で、とうとうウェグナーさんにもアイナにも確かめることはできませんでした。

PP-55

2022/09/27 せんとぴゅあ(東川)にて
聞き手/西川 佳乃

インタビューを終えて

数年前に中小企業家同友会の海外研修で、織田先生とフィンランド、スウェーデン、デンマークを旅しました。そのとき立ち寄った美術館のミュージアムショップや書店での先生の本の選び方は、もう気持ちがいいほどでした。旅先だというのに何の迷いもなく分厚い本を何冊も買い、ずっしりと垂れ下がるリュックを背負う先生。でも今回のお話を聞いて、それは先生にはごく普通の行動なんだと理解した次第です(笑)。(西川)

コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

どんどん本を手に取る先生。

左:デンマークのまちオーデンセで。どこへ行っても鳥にやさしい先生、ポケットのパンを鴨たちに。/ 右:コペンハーゲンのジョージ・ジェンセン本店で、予約していたヘニング・コッペルデザインのスターリングシルバーのカトラリーを購入。

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Life at Oda’s Residence — 織田邸の暮らし

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