第5話

一度手放したものと、30年後に偶然出会った。
やっぱり神様が見てくれている。

一度手放したものと、30年後に偶然出会った。やっぱり神様が見てくれている。

ナンナ・オストゴー
鶏絵大皿(製作年不明)

デンマークではこの大皿のように分厚くて重く硬い陶器を「STEN・TOY(ステン・トイ)」と呼ぶ。英語のストーン・ウェアである。織田氏が研究目的で通っていたデンマークで、まだヴィンテージショップが1、2カ所しかない1980年代に、そのうちの1軒で購入したもの。大阪の自宅で飾っていたという。

大らかな絵付けが気に入って。
値段は忘れましたが、苦労して買ったのは確か(笑)。

この大皿を見つけたのは、1984年から87年あたりだと思います。その頃は年に1、2回デンマークに行っていました。毎回ケチケチ旅行で、部屋にはバスもトイレもない安い宿(1フロアに2カ所トイレとシャワーがありました)に泊まって、朝食を食べながら昼食のサンドイッチをつくってカバンに忍ばせて出発したものです。少しでも節約して、一冊でも多く本を持ち帰りたかったからです。そんな中、ヴィンテージショップで見つけたのがこの絵皿。柄が好きで、作家の名前も書いてあったことから迷わず買いました。

当時ヴィンテージショップがほとんどなかったのは、国民が自国の過去のデザインやものづくりの価値を理解しておらず、振り返ることをしていなかったためではないかと思います。1945年から65年くらいはスカンジナビアデザインが隆盛を極め、特に1950・60年代には一世を風靡しました。僕が通い始めたのはこのブームが過ぎた後だったのです。ある意味で「いいとき」に行ったから、これだけのものを集められた。繰り返し言いますが、時代との巡り合いが織田コレクションをつくったのです。

1990年の「国際家具デザインフェア旭川」で、
「フィン・ユール追悼展」を併催。

のちに僕はこの大皿を、ある人にプレゼントすることになります。それは、1990年に日本で初めて開催された「フィン・ユール追悼展」の開催実行委員会の委員長だった、建築家の多田学さんです。この展示会は大阪を皮切りに京都、名古屋、東京、旭川と巡回しました。実行委員会は17人で構成され、中心メンバーは積水ハウス設計部(のちに副社長)の伊久哲夫さん、「チェアーズ」のメンバー妹尾衣子さん、数寄屋大工棟梁中村外二のもとで修行したデンマーク人、ソーレン・マッツさんなどで、そこに各巡回都市の1名ずつが加わりました。旭川からはカンディハウス創業者の長原實さんが参加。ポスター用のマホガニー材の額を自社でつくってくれました。フィン・ユールの名を知る人がまだ少ない日本で、全国5カ所の巡回展を実現したのですから、中心メンバーの情熱がどれほど強かったかおわかりいただけるでしょう。

必要なお金は、1口1万円の寄付を日本とデンマークで募りました。企画書の英訳はマッツさんが担当。デンマーク大使館、デンマーク王室、国立銀行協会などから次々に寄付が集まってきます。100万円単位の寄付をしてくださる人もいて合計1千万円以上になりました。文化の援護者がいた時代でした。立派な図録も制作して1部1000円で販売しましたが、この図録は最近になってオークションにかかり8万、10万の値が付いているようです。実行委員会は毎週夜6時に始まり、内容や展示方法、役割分担について意見を交わし、毎回深夜まで続きました。長原さんが「こんな熱量の高い実行委員会は初めて」と驚くほど、皆フィン・ユールの魅力というウイルスに浮かされていたのです(笑)。

追悼展で多大なる協力をしてくれた
委員長に、お礼をしたくて。

展覧会は成功裏に終わりました。残ったお金で京都の「和久傳」で慰労会をし、フィン・ユール夫人のハンナ・ウィルヘルム・ハンセンさんとともに大分の由布院に旅行をして、実行委員会は解散しました。そのとき僕は、委員長を務めながら各会場の設営にも建築家として力を惜しまなかった多田学さんに、何か感謝の気持ちを伝える方法はないかと考えていました。多田さんはフィン・ユールへの思いが強く、「本業の仕事ができない」と言いながらいちばん面倒な仕事を引き受けてくれていました。そして僕は、いちばん気に入っていた大皿をプレゼントすることにしたのです。お皿の裏側の作家のサインの横に、僕のサインも入れて。

この追悼展は、日本で初めて単独でフィン・ユール作品を紹介した画期的な展覧会でした。それまでは1960年頃「工芸ニュース」という雑誌に登場したくらい。この展覧会をきっかけに彼の名前と作品が日本に広まっていったと、自負しています。同時に、研究者というものが収集だけを目的とするコレクターと異なることも、ここから徐々に日本人の間で理解されていったのではないでしょうか。

約30年後、
この大皿と京都で再会。

2019年、任天堂の京都本社ビルを改装してホテルを開業するという人物から「旭川家具のメーカーを紹介してほしい」と頼まれ、旭川を案内したことがありました。3年後、彼から連絡がありホテルが完成したから招待したいと言います。僕は家内と連れ立って出掛けました。ホテルに着くと、ラグジュアリースイートという1泊35万円の部屋に通されて、とても驚きました(笑)。その部屋にはカンディハウスの家具が採用されていました。

翌日、30年近く前から京都に来ると立ち寄っていたヴィンテージショップ「ビー・ジェネレイテッド」に行きました。相変わらずいいものがあるな、と思って見ていると、家内が「こっちに面白いお皿があるわよ」と言います。店の隅の方にひっそりと置かれたそれは、なるほどいい感じです。オーナーの岩井さんは顔馴染みで「そのお皿、裏に織田さんのサインがあるよ」とにやり。それでやっと僕も家内も「リビングに飾っていた、あのお皿!」と思い出したのです。僕は即座に「買います」と言いました。多田さんに差し上げたものがここにあるいきさつを、岩井さんは言わず僕も聞きませんでした。それより何より、一度手を離れたものが時を超えてまた僕の元に帰ってきたことに感動していたのです。家内の目の前でものを買うのは厳禁なのに(笑)、今回ばかりはそれを破りました。ただこのお皿を、こっそり購入したほかのものと一緒に送ってもらったことは内緒です。

自分がなんのために
生まれたのか、自覚して生きてきた。

そんな家内も、ようやく最近「苦労してやってきてよかったね」と言ってくれるようになりました。皆さんからもよく、どうやって購入費用を工面してきたのかと聞かれますが、僕だってわからない(笑)。ただ一生懸命、仕事、仕事、仕事の生活を続けてきただけです。他人から見たら道楽と思われるようなことでも、コツコツやっていたらあるとき一線を超えて文化になるんですね。少し前に、僕が高島屋から独立して「画文舎(がぶんしゃ)」という事務所を設立したときのパートナーだった友人が訪ねて来ました。そのとき「織田さんはまったくブレてないですね」と言われて、とてもうれしかった。ブレないのは当然なんです。研究の道に入った以上はね。

僕は若いときから、自分が何のために生まれてきたのかを自覚していました。イラストやデザインという、ものをつくり出す道を続けていくには才能がない。生み出す側より残す側に人生の目標を据えようと。実は旭川に移住して来てから、カンディハウスの長原さんに椅子のデザインを頼まれたことがあったんです。僕は、今まで積み上げてきたものを無にするようなことはしたくない、と言って断りました。名品を残すことと、自分でものをつくることは次元が違います。

「物を残そうとする人は、生き方に自信がない人だ」というアマゾンのインディオの古老の言葉を、大事にしています。僕は自分の生き方に自信などありません。しかし、後世に残すべき美しいものは存在します。誰かが残さなければならないから、僕がやっているだけなのです。それを神様が見ていて、ときどき手を貸してくれている。今回神に導かれて再会した大皿は、今はリビングのソファ前のテーブルに置いて愛おしく眺めています。いいえ、何も乗せていませんよ。せっかくの絵が見えなくなるもの(笑)。

2023/4/12 旭川デザインセンター 2Fラウンジにて
聞き手/西川 佳乃

インタビューを終えて

リニューアルしたばかりの「旭川デザインセンター」で、織田コレクション協力会運営委員会の前の時間を使ってのインタビューでした。中央は会長の藤田哲也氏。「織田先生と写真を撮るなんてなかなかない♪」と飛び入りした記念の一枚です。絵皿は織田先生がエッサエッサと抱えて持って来てくださいました。テーブルに直に置いていますが、お皿の裏側にはパッドが貼ってあるので大丈夫。そこは織田先生ですから。それにしてもこのお皿、北海道から織田先生が迎えに来るのをどんなにか待っていたことでしょう。先生に負けないくらい、お皿もうれしそうに見えました。(西川)

コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの)
東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。

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Life at Oda’s Residence — 織田邸の暮らし

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織田憲嗣氏に聞く思い出のコレクション12