第6話
城所 右文次 バンブー・チェア(1937年)
竹の弾力性を利用した、カンチレヴァー構造(片持ち、せり出し)の椅子。背から座にかけては細長い板状の竹を縦に並べ、座裏の桟に鋲で留めている。フレームも竹で、それまでなかった8枚重ねのラメラ曲げ(すべて同方向に重ねて曲げる)の成型材である。竹製のカンチレヴァーは海外でもいくつかつくられた。
その方を初めて訪ねたのは、1994年に僕が単身旭川に来て間もなく、翌年くらいかと思います。旭川の隣町に、Sさんの家はありました。国道から並木道に入ると、両側に大木が聳える広い並木道が200mほども続きます。なんとこの並木道もSさんの敷地だと、あとで聞いて驚くばかり。なんでもSさんの亡くなられた父上はそのあたり一帯の大地主で、自宅には池が3つもあり、母屋のほかに使用人のための家までお持ちだったそうです。僕たちが伺ったときSさんはその使用人が使っていた家に住んでおられましたが、とてもそうとは思えない大きな家です。母屋はすでに取り壊されていましたが、皇族の方が宿泊されたといいますから、豪邸だったのは間違いありません。ちなみにSさんは東京大学を卒業していますが、なんと在学中の4年間を帝国ホテルに長期滞在してそこから通学したんだそうです。世の中、豪快な人がいるものです。
さて、エピソードはここからです。僕はSさんの家を、その後もう一度訪ねています。連絡すると、ご高齢ながら元気にしておられ、今回は部屋に案内されコーヒーをごちそうになりました。中は広いだけでなく、オンドル(韓国などで見られる床下暖房)などが取り入れられた当時としては先進的な設計です。ふと縁側を見ると、城所右文次の「バンブーチェア」があるではありませんか。しかも2脚、きれいな状態のものが並んでいるのです。実はこのバンブーチェアを、僕はこのときすでに1脚持っていました。1990年前後、コレクションが800脚を超えた頃に京都市立芸術大学教授だった中村隆一さんから贈られたもので、存在は知っていたものの現物を見たのはそのときが初めてでした。Sさんの家で同じものを見つけたときは、北海道のこの小さなまちにあることがあまりに意外で、本当に驚きました。もちろん譲ってほしいとすぐにでも言いたかったのですが、言い出せずに辞して帰りました。
そして今年の春のことです。Sさんの東京在住の娘さんから連絡がありました。「父が亡くなったあと、地元の人に草刈りを頼んだり、家の中の手入れをしてもらっていたのですが、建物の傷みがひどいので取り壊すことに決めました。織田さんは昔うちをご覧になったと聞きましたが、そのときにあった竹の椅子2脚を引き取ってもらえませんか?」とおっしゃるのです。僕はすぐに伺って、家を改めて見せてもらいました。聞いていた通り、あちこち崩れかけており危険な状態です。竹の椅子はあのまま縁側にあり、さらに2脚の間には小さなテーブルが見えました。脚が椅子とまったく同じ竹の集成材ですから、おそらくセットと思われます。天板がデコラ張り、その側面にアルミを使っており、昭和30年頃のものかも知れません。右文次がのちにデザインした可能性もあります。いずれにしても初めて見る貴重なもので、合わせて引き取らせてもらいました。
Sさん宅にあったテーブルの形や、竹の接合方法についてイラストを描いて説明する織田先生。
カンチレヴァー構造はバウハウスのマルト・スタムが考案して広がり、世界中の建築家やデザイナーが多くの椅子を手掛けました。フランスの建築家シャルロット・ペリアンは商工省の招聘を受け、1940年8月から2年間デザイン・工芸の指導員として日本に滞在しました。そのとき案内などを担当したのが、コルビュジエのアトリエで学んだ建築家坂倉準三や、民藝運動の中心的人物の柳宗理です。見学した各地の伝統工芸産地で、ペリアンは日本のものづくりの現場とそこに息づく精神性に驚き、ヨーロッパにないものを深く感じ取ったのです。その後家具のデザインに藁や草を取り入れるようになったペリアンは、この連載の第1話で紹介したコルビュジエのLC4を竹のバージョンでデザインしていますし、日本に来てから終戦頃にかけても竹製の家具をいくつか発表したようです。このバンブー・チェアによく似た椅子もデザインしていて、城所がその作品にインスパイアされたと考える人が多いのですが、実は先に発表したのは城所です。
城所右文次は、三越百貨店の装工部(今の建装部)の技術者でした。当時の百貨店は、大型客船の内装を主な仕事として請け負う傍ら、独自にデザインしたオリジナル家具の製造にも取り組んでいました。バンブー・チェアは、おそらく1932年にアルヴァ・アアルトが発表したカンチレヴァーのモデルを参考にしていると思われます。
ちょうど展示会の準備で東川のギャラリーに搬入されていたバンブー・チェア。成型やベンディングについて説明してくださる。
コレクションの基準は、日本のものでもやはり「残すべきと思うもの」です。その中に旭川家具の貴重なプロトタイプがいくつか入っていますが、日本の椅子は実はあまり多くはありません。床座を基本的ライフスタイルとする日本の家は天井が2400ですから、圧迫感のない座椅子や低座椅子が多くつくられてきたんですね。
日本の家具は、もっともっとデザイン力を磨かなければならないと思います。旭川家具では共同開発に積極的なメーカーもふえてきていますが、ロイヤリティを払ってでも優秀な国内外のデザイナーと組み、共同開発を重ねることが大事です。経営者が知性と感性を磨いてデザイナーと対等な関係が築けるようになれば、コラボレーションはまだまだ広がるでしょう。職人にも同じことが言えます。デザイナーと技術者が対等な立ち位置でものが言えるよう、今より高いポジションに置いてあげなければなりません。それが報酬に反映されれば待遇もよくなり、仕事の質も上がってきます。先日東川町で講演してくださったPPモブラー社のキャスパー・ペデルセン社長によると、同社の職人は年齢や男女に関係なく全員時給が6千円です。
これは余談ですが、今ドラマなどで話題になっている植物学者の牧野富太郎は、僕の故郷高知県高岡郡の佐川町の出身です。そして僕の祖父は若い頃牧野富太郎とともに植物採集をしていた研究者でした。織田家は当時山や土地の管理、町史の編纂などにも関わっていたと聞いています。牧野富太郎が新種「ヨコグラノキ」を発見したとされる横倉山(御嶽またはおみたけさんとも)は、標高約980mで大変美しい形をしており、僕も幼い頃から高校時代まで30回以上登った馴染み深い山です。織田家は平家の落人の末裔で、横倉山にあった「楠神」という集落で暮らしていました。僕の父もそこで生まれたそうです。横倉山の横倉神社は織田家が代々神主を引き継いでおり、父も神主をしていました。本来は僕も神主になるべきだったんでしょうが、大学進学で大阪に出てしまったので親類が継ぎました。でも僕は祖父の研究者としてのDNAを継いだので、それでよしとしてください(笑)。
2023/7/12 せんとぴゅあ(東川)にて 聞き手/西川 佳乃
インタビューを終えて
今回は午前10時に聞き取りがスタートし、終わるとちょうどよくランチタイムに(笑)。「お昼行きましょう」と織田先生が近くの人気店「ちば食堂」へ連れて行ってくれました。銀鱈定食をごちそうになりながら、2002年北海道東海大学旭川校舎の体育館で開かれた織田コレクションの「1000CHAIRS展」に連れて行った次男が、先月結婚式を挙げた報告をしました。写真は当時の体育館での一枚ですが、偶然にも今回取り上げた、カンチレヴァー構造の椅子の考案者マルト・スタムの子ども椅子に座っています。この子がもう27歳。織田コレクションの数も、織田先生と私の年もふえるはずですね(笑)。
コピーライター 西川 佳乃(にしかわ かの) 東京、札幌のデザイン事務所勤務を経て2001年から旭川でフリーランス。現在まで旭川家具をはじめ地元の企業や団体の広告制作に携わる。織田氏とは仕事を通じて約30年来の縁。
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